ヒトノカタチ

「魁!! クロマティ高校」第4巻より

野中英次


 過去の三巻で人間の意味を問い続けていた野中英次は、この巻で初心に戻り、人間のあり方・もっと突っ込んで質そのものに言及しようとしている意気が感じられた。これまでメカ沢に頼っていた問題提起を控えて他の登場人物を中心に人間とは何かという問い掛けを広く考えようとする作者の姿勢だろう。確かにメカ沢をもって語られる人間論は極論になりかねず、それよりも私たちにとって身近なものを道具に人間について考えたほうが読者も哲学的考察に耽りやすいはずだ。
 まず登場するはミック君である。常に中尾という屈強な男を傍らに強烈な体当たりを得意とする人形である。人形でありながら彼は言葉を操り、山口ノボルに一目置かれる存在となる。しかし人形ゆえに彼は常に中尾がいなければ動けないという弱点もある。さて、彼は何者だろうか。山口にいつも殴られる石川はあっさりと腹話術と言ってしまうが、ミック君は山口の言葉に身を乗り出すほどだし、民主主義の意味も知っている。山口を慕うものたちも彼の実力を認めないわけにはいかない展開だが、読者を震撼させるのはこの先だ、デビッド君である。
 人形に人格を認めざるを得ない石川は、主人公・神山の「まず形から入りなさい」という言によってデビッド君という人形を手に入れ、山口とミック君の前に再登場した。デビッド君に息を吹き込んだ石川は感動のあまり涙するが、お笑いに非情な山口はデビッド君を中尾の傍らに置かせてしまったのだ。あっさり捨てられるミック君。神山の「形から入りなさい」はお笑いの常道なのであり、山口もその点は当然踏まえている。言葉の真意を掴み損なって、形にこだわりすぎて中身に敗れた石川の動揺は尋常でない。つまり、人形を操る中尾という人物が重要なのである。外見が変わろうとも決して変わることのない中身が中尾なのである。山口もそれを重視したからこそ、デビッド君をbQの座に据えたのである。人間とは何か、という問題の原点に戻った作者はまず、人間という形について劇中の裏でひそかに語っていることに読者は気付かなければならない。でなければ、次の前田の話の真の意味が解せないのだ。
 印象の薄い端役として不遇をかこつ前田は、日々の動物の世話に憤慨するが、ここでまたしても神山が箴言を述べる、「いっその事、ネコになってみたらどうだ?」。動物の気持ちがわかると息巻く前田をたしなめる神山の当を得た言葉に前田は衝撃を受け打ちひしがれる、前述の「形から入りなさい」に通じていることは誰でもわかるだろう。そして物語は石川よりも一歩進み、形だけでなく食生活から言語までを猫化しようと試みた前田は「人間には動物の気持ちなんてわからない」と悟る。いくら形ばかりを猫に近づけても本当の猫になれるわけではない、「人間にはエゴとおごりがあるから」動物の気持ちなんてわかりっこない。神山の言葉は少々極論かもしれない、実際には分かり合っている可能性だってあるからだが、重要な点は、形にとらわれると物の本質を見誤るという正当・真面目な考えなのである。形から入りなさいとは、あくまでも本質を掴む第一歩であり、ただの物真似に終始してはならないのだ。すなわち、人間の本質を考える一端として「形」があるわけである。メカ沢・ゴリラ・フレディといった人間とは思えない面々がこれまで劇中で描かれた真の理由もそこからわかると思う。
 丁寧な物語作りに定評がある野中英次は、林田の事実を衝撃的に明かすことによって、人は外見だけではわからないという正論を強く訴える。今更そんなこといってどうするのというは愚問、人間の本質を考えたとき、やはりまず形が語られることが多いからである(二足歩行など)。野中英次は、それにあえて異議を唱えようというのである。4巻の大部分を費やして語られている人間の外見についての考察により、読者は形にこだわることの愚かさを感じるはずだ。そうしたところに間合いよく登場したのが真打・ルカ沢である。「あれ、3巻でバイクになってたじゃん」という疑問は低俗である、「いつまで形にこだわっているんだい」とたしなめられるだけだ。
 さてしかし、そんなところに思索がとどまらないから、この作品の評価は上がり続けるのだろう(少年誌にもかかわらず大人向けの哲学的な命題を前面に押し出した本作は講談社漫画賞を受賞している)。第94・95話において、形そのものを剥ぎ取ってしまうのだ。インターネット上の人々、そこにあるのは人格だけである。どのような形かはまるで見当がつかない。書き込まれた内容から人格を類推し、そこから各々が形を想像するという、これまで人々が経験したことのない事態に立ち会うのである。形から入るということが通用しない、いきなり本質の人格そのものが情け容赦なくさらされ交流するという名状しがたい現実が仮想空間に形成される。藤本の苛立ちは形が見えないことへの苛立ちだ、人格はそこにありながら、対象への反撃が出来ないのである。形にこだわるな、だからといって形をないがしろにしてはならない・そこから浮かび上がる人間の本質とは何だろうか。形があるようでないもの、神山は旅を借りて語る「「旅行に行く」という行為は物として残るわけじゃない(中略)、心に積み重なった様々な思い出(中略)、心の中にある大切な記憶――それこそが旅をしたという証なんです」
 人間を人間たらしめるものは、人間であるという思いかもしれない。とすれば、必然的にメカ沢は人間である、ということになろう。ところが、作者は私の凡庸な考察を浅薄だと言わんばかりに、メカ沢を初期化して心の記憶を消してしまう。恐ろしい漫画ある。 (次回予定、携帯電話とメカラッタの可能性)


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