名前のない怪物

講談社 少年マガジンコミックス「魁!クロマティ高校」第2巻より

野中英次



 名前は、もっとも短い呪いの言葉だという。物に名前がついた瞬間に物はその名前の檻に閉じ込められ、身動きを封じられてしまう。人とてそれは同様で、どんな時であろうと名前を呼ばれれば、人はなにかしらの反応を示して思考・動作に支障が出る。そうして馴致した果てに人は名前なくしては生きていけないような誤謬に至ってしまい、自由な存在であるはずの己を束縛に投じてしまうのである。その結果、名前は呪いの言葉となってしまった。では、はなっから名前のない人物についてはどのようなことが考えられるのだろうか。すなわち、北斗の子分である。
 彼には名前がない。「キミ」「お前」と呼ばれるだけで、名前のないキャラクターという存在自体がネタにされてしまう哀れなキャラクターである。ところが、第26・27話の彼の奮闘ぶりはあまりに笑えない、自己紹介をことごとく邪魔される彼に憐憫の情は湧きようもない。何故なら、読者も彼の本名に興味がないからである。主人公・神山が指摘するところの「別にどうでもいい事」であり、ここで期待されている展開は、いかにして彼の紹介に横槍が入るかというコントの基本なのである。「いいか、よく聞け。俺の名前は……」という哀れさは一向に変わらないまま、次の展開だけが次第に破綻寸前にまで膨張し、ついには宇宙人登場という暴挙にまで及ぶのだから、彼の名前はそれを凌ぐほどの印象が必要であり、作品が終わってもなお名前は明かされずに消え去ってしまうキャラクターに違いないことは、読者だけでなく作者も認めるところだろう。
 ところが、ここで作者曰く「他の登場人物と比べて無個性がゆえに、意外とキャラとしての使い勝手がいい」と、別段嫌われているわけではないことがうかがえるのだから、漫画は奥が深い。実際、個性的過ぎる連中が多すぎるために、例えば数人が雑談をしていたとして、そこにフレディやゴリラなんかが加わっていたとしたら、それだけで場面は緊張を生む、読者は何かを期待せずにいられない。若手お笑い芸人がフリートークの最中、遠くに明石家さんまを認めたとき、視聴者のみならず芸人達にも期待感が膨らむはずだ。それが個性あるキャラクターなのだから、いるだけでいい。本来表に出て暴れるべき人が隅っこでおとなしくしているのだから、それだけでおかしみが湧いてくる。あるいはメカ沢の話に林田が生真面目に頷いている、それだけでなにかおかしい、それがバカというキャラクターの武器なのだ。宇宙について真面目に語る毛利衛の隣で出川哲郎がしかつめらしく頷いている、それだけで何かおかしい、というたとえを分析するまでもなかろう。ではここで、それらを北斗の子分に置き換えたとき、観る側に何が起こるだろうか。
 ……何も起きないのである。恐ろしいほどに何も起きない。この作品が他のギャグ漫画と一線を画しているのがこの点である。ボケと突っ込みを器用にこなす神山、ボケ・バカの林田、突っ込み役の前田、そして多くの突込み所を腹に秘めた脇役達。北斗の子分がここで演じるべき役柄はもうひとつの典型、普通の人、であるはずだ。ところがそれですらない。普通の人の普通たる所以は、ギャグ漫画においてはどんなに異常な事態に陥っても普通でありつづけるというボケに近いところであるが、北斗の子分にそのような役どころは望めない。彼は徹頭徹尾、名前がないのであるからして、すでに異常事態なのである。にもかかわらず無個性といわれてしまう彼の悲劇は、やっぱり名前がないという当たり前のところに行きついてしまうのだからつまらない。
 何故だろうか。不思議でならない。彼は名前に縛られない自由人のはずだ。しかし、彼に与えられた役回りはその他大勢のひとり……これでは役としての意味がない……他の作品に登場する名前のないキャラクターを思い起こすとき、きっと彼らは中心人物のひとりとして輝いているはずだ。北斗の子分と彼らの差は一体なんだろうか……
 彼の激しい自己主張は、フレディの寡黙に到底及ばない。ゴリラのような凶悪性も秘めていないし、突っ込み役を固持する前田を脅かすほどの特徴もなく、まさしく北斗の子分でしかない。呪われているような彼の存在……呪われている! 彼の初登場を思い出すと、なんと謙虚なことだろう、北斗をたてることに努めて目立たずはしゃがず、神山・林田に対する前田のように、北斗に対する子分として、彼はその役をしっかりと演じていたのだ。とろこが、北斗は神山グループに吸収され、たちまちにして立場を失ったのである。誰にも名前が知られていないという事実、同窓会に集まった人々の中に必ず一人いるだろう「あんた誰だっけ」に近い悲しみを彼は背負い、第26・27話でかような暴走に至ってしまうのである。当然、読者は引く。誰もお前の名前には期待してはいない。そして破綻。この2話の主役であるはずの彼は最後のオチをフレディにもっていかれて頭を抱えるのだ。もし彼が山口ノボルならば、宇宙船を殴り落としてでも自己紹介を貫いただろうが、彼にそんな気概はなかった。
 さてしかし、恐れるべきは神山であろう。さすが主人公、目立つことなく脇役を取り込む手腕こそ彼の魅力。北斗を失った子分に残された道(ネタ)は、かの2話しかなく、もう一度子分が準主役として登場したとしても、名前ネタ以外に何があろうか。この先彼は名前なき者として、北斗の横にいつもいるその他大勢でしかないのだ。
 名前を持たずして呪われてしまう存在・北斗の子分。彼を呪縛した者は果たして、神山の気紛れか、突っ込み役は二人も要らないと言う前田か、林田が引き算を解いたのか、今後の課題としよう。(次回予定、ベルクソンに学ぶ「笑い」 〜山口ノボルの憂鬱〜)


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