メカ沢という哲学

講談社 少年マガジンコミックス「魁!クロマティ高校」第1巻より

野中英次



 第20話「ロスト・イン・クロマティ」を仕切る主人公・神山と林田のメカ沢についての考察は興味深い。まず背景を説明すると、クロマティ高校の生徒・メカ沢は、外見からして人間には見えないし、名前から察せられるとおりメカニカルな奴でありながら、人望厚く義理がたく、クラスのリーダーだ。それを神山と林田の二人は外見の奇抜さから人間ではないと決め付けてしまう。
 メカ沢の言動は不良たちの中でなくとも魅力的な一面を持つ。やや一般論に傾きがちなものの、有言実行する姿勢はとても16歳の高校生とは思えないくらい。人を慮ることを憚らず、単なる反抗心丸出しの少年ではない。だからと言って自分に酔うことなく、説教調でもない。なんとなく機械に強そうなところを見込まれてCDプレイヤーやビデオデッキの修理を頼まれても「機械オンチだから」と正直に話して下手にいじらない態度は清々しい上によくよく己を弁えている。クラスで人気があるのも肯けよう。私が彼に感情移入してしまったのはその後の彼の言葉である、「このままじゃオレたち、機械に支配されちまうぜ」。やられてしまった、なんという鋭い考察だろうか。
 携帯電話の普及を考えるだけでも彼の言葉の意味が理解できるはずだ。成人式の最中、携帯でしゃべくりまくって顰蹙を買った人が言うに「昔の人って携帯なくて(暇な時間を)どうしてたんだろう」。これだけを聞けば、なんて頭の悪い人だろうと気の毒な視線を向けるものだが、メカ沢は人の一面のみで全てを判断する危険性をも指摘している、「先入観」という言葉を使って友人を諌めているのだ。携帯をさまざまに使いこなす彼らはその方面では政治・経済をどうこう言っているおっさんたちより優れているわけだ。
 しかしながら、読者も神山ら同様にメカ沢を人間と思わないだろう。そんなときに、引き算も出来ない林田は「恐ろしいことに気付」く、これは読者へ向けた言葉でもあり、メカ沢を巡る物語の要点でもあり、発想の飛躍・先入観を捨ててはじめてたどりつくことが可能な真理への第一歩と言えよう、すなわち「メカ沢に疑問を抱いているのはオレたちだけなんじゃねえのか」。林田の言葉に普通人を称する神山(彼は劇中で常識をもっとも理解している人間としてわかりやすい思考をする親しみやすさをもっている)はうろたえる。猿より頭が悪いと思われていた彼が言うのだから、その言葉の重要性に加えて、人の能力は学校の勉学だけで判断されるわけではないことを感じ取って「まさか……」とうめくのだ。
 ところが、二人のやり取りは瞬時に真理の二歩目を踏み出すのだから、この作品の奥深さを実感した。世の中にはいろいろな人がいることを今更ながら思い出した二人の会話、神山「そういえばあんな人いるような気がしてきた」、林田「センター街あたりに行けはああいう奴2、3人はいるハズだ」。表層に漂っているのは、単に自分の偏見を自省して頭を抱えている姿だけだが、底には空恐ろしいナチズムめいた腐臭が澱んでいることになかなか気付かないものだ。これこそが作者の真のメッセージだろう、私たちの思考は知らず知らず何者かに制御されているのではないか? という問い掛けである。
 この作品にはゴリラも登場する。「うちの生徒じゃないだろう」と疑われ、挙句の果てに「人間じゃない」と言われてしまうが、神山は、ゴリラが腕時計をし携帯を使っているのを見て人間だろうと考えた。このときの彼の思考は自由である、何をもって人間とするかという生真面目な思索は実に思春期の少年らしい不安定な精神を描いている。何色にも染まらぬ想像力を持っている。そんな彼でさえメカ沢を人間ではないと考えてしまう、その影の力……ある人が犬を猫と呼んだところでばかにされるだけだが、どこぞの生物学者が「猫だ」と言えばたちまちその犬は猫になっしまうだろう。こんなわかりやすい例で説明できるほどに影の力は単純ではないが、大衆を簡単に煽動するこの力(ときにファシズムとも言う)の存在を感じながらもそれを表現できないゆえの悲劇を突っ走ってしまう少年の心情は察するにしのびない。
 メカ沢は人間ではないと言いたくても言えない二人の懊悩は、読者に何を与えるのか。いや、ちょっと待て。力に思考を縛られているのはメカ沢を人間として慕う人々ではなく、二人を含めた読者自身ではないのか。冒頭の問いにたちかえれば、メカ沢を外見だけで人間ではないと断じたのがきっかけだった。ゴリラはどうだ? ゴリラはしゃべらないしメカ沢のような魅力もない、言い知れぬ力強さにみながみな手を出しかねているだけだが、メカ沢は言葉を解し感情もある。多少身体が固い面があるものの無感覚ではない。つまりメカ沢は実に人間らしいのである。もちろん「人間とは何か」なんて大仰な哲学ではない、読者を知らず知らずメカ沢すなわち人間にあらず、という短絡的な思索に追い込む作者の周到な作劇なのだ! これこそ本当の影の力、まいりました。(次回は「沈黙とはなにか 〜フレディの真実〜」を予定。)


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