メカ沢という哲学・その2

講談社 少年マガジンコミックス「魁!クロマティ高校」第3巻より

野中英次


 メカ沢は人間なのだろうか、という命題を残したままにしてこの作品も3巻まできた。2巻において物の名前の意味について言及したところ浮かび上がった疑問が、存在の意義だった。名前なくして存在もありえないのか、という居直りめいた言葉を強く否定し、同時に人間はそれ一個で存在すると主張する北斗の子分の生き様に、読者はあまりに名前に拘泥する自己を直視せざるを得ず、さらにマスクド竹之内の存在が名前の無意味さを強烈に煽り、名前というものがいかに個人を縛り、思考を狭め、発想を抑圧するかを知った。それは単に漫画における架空の登場人物という枠にとどまらせてはならない、非常に重要な命題を再びここに持ってきたのである。メカ沢について考えるということは、すなわち人間とは何かという哲学の主軸である問いにぶつかり、それにギャグという形式で挑戦する作者・野中英次の精神にまず敬意を表したい。
 3巻のメカ沢は、人間といって想起するだろう姿から遠ざかろうとするあまり突如破壊され、珍妙な作者の発想によって、バイクという予想だにしなかった設定を読者に強制する。この唐突な展開は作者が問題を性急に解決しようとしているようにも思えたが、その後野球を借りて常識と偏見の相違について問い掛けることにより、「人間とは何か」という一種崇高な目で持って迎えられがちな・ひいては誰もがどうでもいいだろうそんなもんと本を投げ捨てようとするか否かの瀬戸際になって問題をすりかえつつも底に潜む事実や道徳・倫理などとさまざまな名称で表現されることの真の意味を多角的に語るわけである。これは、かの命題に固執するあまりにほかの問題をないがしろにしてはならないという作者の自省であり、読者にとっては有意義な問題定義になるのである。実に考えられた構成だ。
 破壊される前のメカ沢の描かれ方も秀逸である。いきなり破壊させてしまうという暴挙は2巻最後でやらかしながらも、その後急にバイクになったのでは、神山と林田という読者の代弁者たる二人の立場を無にしてしまうからだ、二人が絡んでこそ読者も悩むことなくメカ沢人間問題に入ることができるのである(2巻最後は作者の焦りかと思われたが杞憂だったようだ、その後フレディという形に惑わされる読者を意識しつつ展開される第47話、ルールにこだわった果てに自滅する不良たちを描いた第50話、笑いにこだわりすぎて人を笑わせることを忘れた男の末路を淡々と綴った第51話など、作者の意識を反映した作品が見られる)。
 そして第52〜53話前半で、かつて洗濯機に間違えられたメカ沢を思い出させ、お約束となりつつあったメカ沢ネタを作者自身が破壊してしまうのである。まさに英断、「あー退屈だな…」と言っていた林田の台詞・読者の思いまでもが一瞬にして木っ端微塵にされるのである。
 復活したメカ沢バイクは、ほとんどバイクである。というか武器にもなる、空も飛ぶ、人間の能力を凌駕した存在である。だが、やはり彼は人間であるらしい。神山とともに留置所に入っているメカ沢が語らずに伝えるさりげない演出だ。つまり警察はメカ沢を少なくともバイクとは見ていないのである。もちろん学校側も彼を生徒とみなしているからこそ陸上大会に出場させるのである。
 彼はバイクなのか人間なのか、という疑惑がここで霧散する。なぜならその後に外見に惑わされる登場人物の悲哀を7話にもわたってしつこく描いているからだ。この意図は何か? 第65話で明らかにされるそれは、主人公・神山が自ら劇中で語っている、「ルールに縛られる生き方って悲しくないかい(中略)時としてそれを破る事で新しい物が生まれたりもするんだ」、ルールという外枠・外見を破ってこそ進歩の可能性が出てくるという青年の主張臭さがあるものの少年読者を意識した作者の苦心の物語作りによって、いよいよ命題の核心に迫るのである、第68話の4頁目がすべてを表現している。一頁に凝縮された命題と作者が得た解答をここで解説しよう。
 「盗まれている」という台詞。神山は彼を友達扱いしながら腹の中では彼を乗り物と意識していたことをあっさりと吐露させる意味深な言葉である。「やはりバイクだったのか」という神山の落胆振りはどうだろう、林田の突っ込みも正当である。北斗の冷静な対処法も簡潔である。メカ沢はバイクだった……この衝撃は多くの読者を打ちのめしたに違いない。これまでのメカ沢があまりにもほかの登場人物と同様に描かれていたために、明らかなゴリラや宇宙人かもしれないフレディといった激しく抜きん出た特徴を持った者により、メカ沢がバイク姿でこの中にいても全然違和感がなかったのである。それだけ彼は人間に見えたのである、そう見えていたに過ぎないのである。ていうか、見たまんまバイクだろ、これ、という突っ込みは今更無用だ、外見のみならず能力まで人間から遠ざかったところで、ほかのキャラと一緒だから人間だろう、警察や学校が人間と認めているのだから人間だろう、という前述の思惑をもここで打ちのめすのである。簡潔に言おう、メカ沢は人間という設定の下に劇中のルールに則って描かれていたが、実はすでにバイクとして描かれていた、という事実がこの頁に隠されているのだ。果たして、人間とバイクを分かつものとはなんだろうか? いや、そもそも彼を人間と意識していたこと自体が異常だったのではないか……読者の常識を揺さぶるこの作品は、警察に盗難届けを出そうという北斗の言にしたがった場合、どのような展開が考えられようか。「人間とは何か」という命題を引きずったまま、メカ沢人間派の国家権力と対決するメカ沢バイク派の主人公が描かれるとすれば、この物語は歴史に残る問題作になるだろう。
 メカ沢という哲学はまだまだ根が深い。(次回予定、安部公房「他人の顔」とマスクド竹之内の真意)


戻る