「3月のライオン」第1巻 橋を渡る

白泉社 JETS COMICS

羽海野チカ



 本当の自分をおもちゃの銃で撃ち殺した裸の少女は、殺風景でカーテンのない部屋を後にし、記憶喪失の兄が眠る病院を訪れるために長い橋を渡った。彼女は「アイス」と名乗り、兄の恋人と称して病室にやって来た――
 映画「三月のライオン(1991年 矢崎仁司監督)」の冒頭である。各話の扉絵が続きものの物語になっているのも楽しい羽海野チカの最新作「3月のライオン」を語るときにこの映画を無視できないのは、私が邦画好きだからというわけではない。タイトルの英題「March comes in like a lion」をはじめとし、DVD「三月のライオン」に付された監督の解説文をそのまま引用するだけで、「3月」の解説足りえるという現実を目の当たりにするからである。曰く、「「三月はライオンのようにやって来て、羊のように去っていく」っていうのが諺の全部。一番引っ掛かったのは花の季節の前には嵐があるってことなんだ。一年の中の三月じゃなくて、人間の一生の中の三月ってとらえて欲しい。」この言葉の意味するところは、「3月」の主人公・桐山零の境遇を想起させる。まぁ、だからと言って「3月」をパクリ云々と責めるわけではない(映画を観るとあの辺とかこの辺とか微妙に設定似てるかも……と複雑な気分になるけど。もちろん穿った見方をすればの話)。冒頭の零が初登場する場面を読んだだけで、もう物語の世界に引き込まれてしまったわけで、やっぱり羽海野チカの表現は読んでて楽しい。
 居場所なんて何処にも無い、という強烈な言葉から目が覚めた零。彼の表情が下向きに描かれる。夢に現れた女性の威圧感と言葉の意味が持つ重圧に押しつぶされているかのような描写である。そこから起き上がった零の、何も無い部屋。無いという言葉繋がりで読者の意識を縛ってしまう。川を眺めて表情が和らぐ、戦いの場への道程でも彼は電車内から川を眺める。千駄ヶ谷駅前で広がったはずの彼の視界は川を見るよりも侘しい。徒歩で向かう道すがらのコマも含め、彼の周囲には人影が描かれない。冒頭の女性と言葉だけが、彼の心に残り続けたままだ。セリフのないコマを読み続ける読者が自然と彼との距離を縮めていく。その後、後に両親亡き後を引き取ってくれたと知れる幸田との対局でも「無い」という言葉が重ねられ、彼の孤独感が鮮明に描かれていく。対局後の彼を慰めるのも川だった。
 しかし、ひとたび橋を渡った彼には、よくしゃべる気立てのいい女性達が待っていた。この時点ではどういう関係かは判然としない三姉妹の中で、彼は夕食を共にする騒がしさに身を委ねようとしたが、さっきまでの対局が思い出されると、彼を心配する優しさの中に包まれながらも、なお彼の孤独感が癒えない事実を目撃する。彼が眠りにつく場面で終わる第1話は、再び冒頭の悪夢の世界に戻されるだろうことを予感させる……
 橋を渡るということは、彼にとってどういう意味があるだろう。第4話で彼が解説する。「倉庫と会社と工場」が目立つ街で、食料などを買うには川向こうの町まで足を運ばなければならない。彼にとって、橋は生きるために仕方なく渡るものだった。近くでコンビニなんかがあればいいのにと考えるものの、知り合いが出来てからは、なんだが「橋の向こうに色がついたような気が」する。
 彼の境遇が明らかになってくるにつれて、橋あるいは川という場所の意味合いがおぼろげながら見えてくる。そもそも、流れ続ける川は、彼が住む六月町と三姉妹が住む三月町を遮っているものである。まして職場たる会館に行くには橋を渡らなければならない。義父であり師匠でもある幸田の元を去った彼が、生活観の無い街の高層マンションで暮らすことを選択したのも偶然ではないだろう。その幸田との対局において、彼は実力の差を感じてしまう。師匠を超えると言えば聞こえはいいが、物語は残酷にも第1話で盤上という幸田との接点まで断ち切ってしまう(もっとも、その後の展開次第と棋士の世界という特殊性を考慮すれば、幸田と再び相まみえるとしても不思議ではないが)。傍から見れば、家族を失ったとはいえ美人たちに囲まれ、好敵手も次々と現れる、賑やかな世界で生きているように思えるが、彼がその街に暮らしている限り、そこに出向くには強い風にさらされた橋を、渡らなければならない。
 村山…じゃなくて二海堂(太ったキャラクターが出てくる時点で村山聖がモデルと思われるのは、この手の作品ではもう避けて通れまい。実際村山がモデルなわけだけど)が零の部屋を唐突に訪れるというのも、実はとてつもないことなのである。室内だけでなく町並みも人気がないだけに、六月町を訪れるということは、そこに住む人に用がなければならない。わざわざ橋を渡る価値がある人間がそこにいるということだ。二海堂が零をライバル視し、「親友」と図々しく語る場面にしても、いずれ彼の存在の大きさが体型と同様に焦点が当てられよう。モデルがモデルなだけに、それだけで死亡フラグ立ちまくりという瑕疵というか予感があるとはいえ、これをどう乗り越えるかも作品の見所だろう。
 零の過去が明らかになると、彼が川べりの道をとぼとぼと歩く背中、橋に向かうことの寂寥感が見えてくる。騒がしいけど過去の悲劇を思い出してしまう橋の向こう側、何も無くて誰にも邪魔されずに川を眺めることが出来るけど無いということに押しつぶされそうな橋のこちら側。間を流れる川は遮っているように見えて、実は二つの相反する世界を橋によって繋いでいる空間でもあるのだ。橋の上を歩く彼は、この挿話・第9話では寂しいものがあるだろう。だが同じ帰り道で三姉妹の作った弁当を抱えた時は、その温もりと共に彼女達の優しさを感じただろう。どちらの感情も持ち合わせた川という空間。彼が川を眺めるということは、どちらの感情も受け入れずにすむ安堵から来るもなのか・どちらの世界にも属さない孤独から来るものなのか。そして、零は橋の上でこれから何を見つけるのか。あかりの照らす暖かさか、ひなたの温もりか、それとも、盤の上に川の空気を求めるのか……
 映画「三月のライオン」は、終盤、同じ橋を今度は兄のハルオが渡る。これから嘘をつきに向かうアイス(氷)に対し、ハルオ(春)はその先でアイスの真の姿を知り、泣き咽んだ。氷の冷たさと春の暖かさの間であり、どちらも併せ持つ川のような三月という空間。「3月」の桐山零が物語の終局でどのような思いで川べりの道を歩き橋を渡るのか。対局の行方は、まだわからない。
(文中の引用は、DVD「三月のライオン」(2000年発売版。Imagica CINEFIL DVD COLLECTION。アップリンク。)のブックレットから引用した)
(2008.2.25)

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