「3月のライオン」第7巻 おはよう、ちほちゃん

白泉社 JETS COMICS

羽海野チカ



 「3月のライオン」7巻を読んで複雑な気分になった。
 主人公の棋士・桐山零が世話になっている三姉妹の次女・ひなが通う中学校では、ひなの幼馴染・ちほがいじめられたことで転校してしまう事態にまで発展して、なお続いていた。次の標的にされたひなは、クラスの中から孤立しつつも、零との絆を深め、また姉のあかりや新しい担任教師の尽力により「解決」に向かって動き出した……
 あるいは、いじめと「戦う」ひなは、いじめグループのリーダー格・高城と対峙し一歩も引くことなく立ち向かった……このような表現をもって語られる7巻のひなのいじめ話は、教師たちがいじめグループを個別に面談し、反省の姿勢をクラスの前で表明される形で一応「決着」となった……
 「3月のライオン」という物語にとって、いじめ問題がどのように結実するのかは不透明ではあるけれども、人との関わり方の変化を描いている以上、友愛だけでなく、このような衝突も避けては通れないのかもしれないが、どうにも納得できない感情が自分の中に残り続けた。
 確かに物語にとっては、いじめ事件は「完結」しただろう。ひなと零は親密になったし、ひょっとしたら二人の将来に何かしらを期待させる雰囲気させ漂わせた。幼い妹の事故死は、自分自身の力ではどうにもならないし、どのように抗おうとも妹は戻りはしない。だからこそ、彼はひなを棋士ならぬ騎士として守ろうと誓うのは駄洒落でなく本気なのだろう。では、何故そこにいじめという問題を選んだのか?
 ひなが7巻で見せた姿勢を、彼女自身がこう形容した、「何があったって 生きて卒業さえすれば 私の勝ちだ」。一体、何と戦っているというのだろうか。零のような盤の向こうにいる明確な対戦相手とは違う。極めて曖昧な、そもそも相手がいるのかもわからない事態である。いやいや、ひなが相手をしたのはいじめっ子という明確な相手がいるだって? なるほど、彼女が高城の陰険な嫌がらせに立ち向かった姿は勇ましいことだ。「勇気の第7巻」という単行本に付いたオビの文句「勇気」も、この巻を象徴する言葉だろう。
 では、転校したちほは? 彼女は負けたというのか? ひなの言葉は、転校して卒業できなかったちほの存在そのものを否定することにならないのか? 高城に立ち向かう自分の姿に酔っているだけではないのか? ひなの姉・あかりは、いじめに苦しむ心情をこぼすひなに向かって、これまた勇ましく宣言した。「どこまでも ひなの味方だからね」
 娘が人をいじめていないと信じる高城の母もきっと娘に言ったことだろう、「どこまでも あなたの味方だからね」
 読者は、どこまでいってもひなやあかりの言い分が正しく、靴を隠される等いじめられていたのは間違いなくひなであり、ちほもまたいじめによって転校に追いやられてしまった一人であることを知っている。だからこそ、彼女たちの言葉一つ一つに、姉妹の心強さや、それを支える周囲の人々の優しさを実感できるし、ちほを支えることが出来なかったことを悔いるひなの気持ちも痛いほど理解できる。そういう作劇が施されているからだ。
 そして、実際にこのような展開を私は面白いと思うし、キャラクター達への感情移入も存分に促される。うん、間違いなく「3月のライオン」は面白い! けれども、もう一人の私が繰り返し囁くのだ。ねえ、ちほは負けたの? 何に負けたの? そもそも何と戦っていたの?
 2008年公開の映画「青い鳥」を皆さんはご存知だろうか。重松清の同名連作集を原作に中西健二が監督、阿部寛が主演を務めた、いじめを主題にした映画である。
 主人公である吃音の教師・村内が臨時教師として赴任した先は、数ヶ月前にいじめ事件でニュースになったクラスだった。担任教師が事件の心労でダウンしたのだ。いじめられていた男子生徒・野口は、度重なるいじめに耐え切れず遺書を残して自殺を図るも未遂。結局、彼は転校する事態となった。間もなく遺書は週刊誌によって取り沙汰され、学校側は事態を重く受け止めていじめ再発防止を尽くすと共に、当事者のクラスメイトには全教師が納得するまで反省させ、校内ではベストフレンド運動なるものが開始。いじめ事件で揺れた学校は落ち着きを取り戻そうとしていた。
 映画は、いじめの当事者である生徒のうち、主犯の一人である井上と、野口と仲の良かった園部の言葉を中心に、いじめとその後のクラスの様子を解説する。俺たちは十分に反省した、全て終わったことだ、と。
 だが村内は、そうは考えていなかった。倉庫に仕舞われた野口の机と椅子を教室に持ち込むのである。そして彼は机に向かって語りかけた、「野口くん、おはよう」
 野口は転校してこの学校にはいない。何故今更、こんなことを蒸し返す? 生徒たちは反省文を書き、教師が一人ひとり添削した。何度も書き直させた。だが、何度も書き直させて出来上がった反省文は、どれもこれも似通った言葉が並ぶ、まるでお仕着せの、あるいはテストの模範解答ばっかりのような、そんな決まりきった「思いやり」だの「尊重」だの「傍観者」だのなんだのといった言葉ばかりだ。
 「3月のライオン」7巻のいろんな感想を読んで、同じ気分になった。どれも判で押したような言葉ばかり。もちろん、それらを否定する気は毛頭ない。当人にとっては、本心から出た言葉だ。高城に敢然と言葉という拳を挙げたひなの態度を喝采するのもわかる。彼女は強いよ、フィクションとは言え、その強さに私は頭が上がらない。あかりが高城の母に責められた時、何も言えなかった状態に陥った心の動揺を、新任の教師が替わって言い返すのも、この先生がいれば大丈夫だ、という安堵を読者に実感させるだろう。いじめは「解決」に向かう、と。
 繰り返し問う、ちほは負けたのか? 負けたって何?
 映画「青い鳥」で村内が語った言葉を引用しよう。「野口くんは転校なんてしたくなかった、このクラスのみんなと一緒に卒業したかった」
 ちほだって転校なんてしたくなかったはずだ。ひなと一緒に卒業式を迎えたかったはずだ。ちほの手紙を読んで、彼女が学校に通えない状態になるほど心をズタボロにされている。なんだよ、「心のケアセンター」って。あっちの学校で仲良くやってますじゃないんだ。彼女は、みんなが当たり前のように通過する中学校生活を送れないくらいの経験をしたのだ。それもこれもいじめに「負けた」結果だから仕方ないと言うことなのか。
 もうこの際だから、はっきり言おう。「隣人13号」の感想でも書いたが、20年以上前の4月、私が通う中学校でいじめを苦に女子生徒が自殺した。私は彼女と一面識もないし、名前も知らなかった。だが、私が彼女の死に衝撃を受け、今なお何一つ解決なんかしていないのも事実だ。いじめ問題について「解決」なんかしやしない、当事者でなく、ただ同じ学校にいた、それだけでも解決なんてしやしないほどの衝撃を受けた。これは事実だ。俺も負けたのか? そもそも戦った記憶もないのに。忘れれば勝ちなのか? いじめなんて気にせずにへっちゃらな顔をしていれば勝ちなのか?
 自殺した女子生徒がいたクラスは、事件後、とてもいいクラスになったと聞いた。人一人を死に追いやって得たクラスの平穏ってなんじゃそりゃ? まるで自殺に追い込んで、めでたしめでたしみたいじゃないか。
 彼女のクラスメイトたちよ、あなたたちは毎年この時期をどんな気持ちで迎えている? もう忘れたか? どんないじめをしたのかも思い出せない? 彼女の顔も声も、クラス会で彼女について作文を書いたことも、自殺後に何度も開いた学年集会も、何もかも忘れてしまったか? 彼女と同じ年の子を持つ親になっているかもしれない。子どもにはいじめについてなんて教えるんだ? どの口で教えるんだ? いじめられたらどうする? いじめてたらどうする? 運が悪かった? お前もあのクラスにいればいじめに加担していただろうと言うか? 加担していたかもしれない、傍観していたかもしれない。だからこそ、せめて私は忘れない。忘れることなんて出来ない。忘れてはならない。いじめがもたらす影響を軽んじてはならない。
「彼女は自殺なんて本当はしたくなかった、このクラスのみんなと一緒に卒業したかった」
 もう一度問う、ひなは勝ったのか? だとしたら、ちほは負けたのか?
(2012.04.30)

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