「武侠さるかに合戦」

エンターブレイン ビームコミックス 天の巻・地の巻

吉田戦車


 言葉の感性がたのもしい吉田戦車のストーリーマンガである。題名からわかるとおり、さるかに合戦を下敷きにした三国志ばりの・水滸伝なみの・魔界転生みたい(これは嘘)に展開される合戦絵巻に仕上がっている。
 物語の発端は蟹の親子がおむすびを拾ったところからいきなり始まる。世界観の説明も何もない。棒という卑劣な剣士がいて、針という仁義に厚い剣士がいて、猿がしゃべり栗の忍者がいて、なんでもありの世界が唐突に突きつけられるが、読者は混乱なくこの世界を受け入れる。表紙は擬人化された蟹の姉弟だが、次の頁に針と棒が登場することで、ああ吉田戦車だよ、と納得する。吉田氏を知らない読者でも、これが吉田戦車なんだと納得する。擬人化の仕方が、さすがギャグ漫画家といったところであろう。私は針の造形にいきなりまいった。針だから武器は針や剣という発想は難くない、そこから金属質を醸しつつ人間のような姿にする、しかも格好から性格を類推させる、この読者の直感を煽る描写力に驚いた。しかも棒とのやり取りによって針の律儀さと同時に、棒の気まぐれな性格も浮かび上がるという冒頭のつかみ、たった一頁を読んだだけで楽しくなってきてしまった。
 はっきり言えば下らない話なんである。このしょうもなさと真面目さの不安定感が戸惑う原因だった。爆笑するような可笑しさではないし、びっくりするような物語の仕掛けもない、だから吉田漫画はほとんど読んだことがない。「伝染るんです」は読んだが、吉田氏のストーリー物なんて読む気が起きなかった。で、本作は正直なんとなく買った、決まった物語が熱血冒険活劇になったという帯の文句に釣られたようなものである。そしたら読んだ途端に作品世界に引きずり込まれてしまったというわけである、そりゃ楽しくないわけがないだろう。
 「伝染るんです」を読んだ時は、絵の上手さなんて考えもしなかったんだけど、本作は針の描写を見てすぐに上手いと思った。そしたらもう構成とか演出とかにも目が向いてしまうんですよ、驚いた、吉田戦車って漫画上手いんだね、今まで蔑ろにしてて申し訳ない、ほとんに。
 戸惑いの原因だったしょうもなさと真面目さの同居が今ではおかしみを誘う。たとえばタヌキ先生の描写は、最初は服を着て診るのだが、次に登場する時は服を着ていない、次回登場時で金玉の輝きを際立たせるために隠しているのである(ほんまかいな)。あと、医者でございと見てわかる白衣もある、これでタヌキは医者という役割を即座に手に入れる。また、キャラクターの第一印象の与え方も尋常ではない。天の巻34頁・栗の大親分登場場面、なぜか裸で股間にはいがぐりが構える(作者はこのキャラ好きなのかな、その後も栗親分には大ゴマをよく用いている。単にでかいからか)。66頁ではオカマの杵を登場させ、設定にこだわる様がうかがえる。姿形だけで十分キャラクターは判別できるがそれでは飽き足らず、細かなところまで(言葉遣いはもちろん、性格付けも行動の動機付けもしっかりしている)配慮された構造が心憎い。女王蜂登場とその後の言動に潜む怖さの多重性も深い、本編の蜂は女王蜂候補・二娘(じじょう)と数少ない名前があるキャラだが、その親たる女王を畏怖する「怖い」がおかしいのだ。いろんな意味づけが出来る怖さ、蜂の卵をボールのように扱って遊び、それを諌める蜂をド突いたり。変なキャラはとにかく初登場時がでかい。地の巻で登場する牛の糞たるや一等変だろう。擬人化された牛の糞が一頁を使って描かれるばかばかしさと作者の勇気と、そこに被さる深刻なナレーションとの違和感がたまらなく面白い。
 ギャグ漫画っていきあたりばったりな展開がすべからくあるような先入観を抱いているのだが、それは私の読書不足ゆえだろう、実際はギャグだろうとなんだろうと先々の話を見据えた上で構成が練られているはずだ。だがいかんせんギャグ物は、刹那的な勢いで1頁1頁を凌いでいくような疾走感が重要視され、全体の構成に目が向けられていない(というのも私の偏見なのだが)。だから俯瞰した時に見えてくるこの作品の各場面が線で繋がっていることに気付くと、ストーリー物として立派に完成されていることに驚かされるのである。吉田氏はこのあからさまな伏線をくだらなさで隠蔽し、まるでその場限りの思いつきのような描写で読者を欺くのである(私の薄学の範囲で知る限り、この対極にあるギャグ漫画がたとえば三宅乱丈「ぶっせん」かもしれん)。本作で数少ない目に見える点と線が針と二娘の因縁だろう、二娘は前半で物と戦うことの厳しさ・難しさを思い知らされ、苦悶の末に猿太極拳を習得して針との対決に決着を付けるという真面目な流れ。もちろんその後で薬指一本(小指でもなければ人指し指でもない、この微妙なずれがおかしい)で猿を蹴散らす栗親分を描いて場を吉田世界に引き戻すことも忘れない。
 緩急自在な作劇術にやられっぱなしだ。これからは吉田漫画をたくさん読んでいこう。

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