「さよならもいわずに」

エンターブレイン ビームコミックス

上野顕太郎



 7月に新宿ロフトプラスワンで行われた映画評論家・町山智浩氏のトークイベントがユーストでネットでも流された。映画についての語り方の勉強になったのはもちろんのこと、これはあらゆる物語の分析にも言えることなのだな、と感じた。物語には4つの層があると言う話はまた機会があれば触れるとして、ハリウッド映画の物語の基本構造として、「子ども」→「試練」→「大人」という三部構成であると語った点に今回は注目したい。というのも、この後に読んだ上野顕太郎「さよならもいわずに」の構造がまさにこれだったからである。
 少々乱暴に言えば、近親者の死に触れる物語は、全てこの構造に当てはまると言ってもいいだろう。死に接した人々は、嘆き哀しみ、喪失感に絶望することもあるだろう。時には泣き喚き、あの時こうしていればあの人は死ななかったかもしれない、と思い悩むことだってあろう。感情に支配された・感情のおもむくままに、人はその死に振り回されていく。それは「子ども」のような態度であり、大きな「試練」でもある。けれども、喪失感は日常の中で薄らいでいく。失われた日常の一部をいかにして埋め合わせるのかという苦難の日々が否応もなく押し寄せてくる。そして、その死を受け入ると、普段の日常をまた過ごすことになる。生き残った人々ができることは、やはり生き続けることでしかないからだ。町山氏は、試練を経た主人公が大人としてまた日常に戻っていく姿を簡潔に「でもやるんだよ」と述べた。
 死が訪れる前の日常と死を受け入れた後の日常には大きな隔たりがあるように思えるかもしれないが、傍目には全くわからない。道行く人とすれ違ったとき、その人がどちらの日常を送っているのかなんて、一目でわかろうはずもない。たとえば、その日の仕事を終えて家に帰ってきたとき、何の気もなしに「ただいま」と玄関で言う。その声は、いつもと変わらない調子だと傍目には思われた。だが、「さよならもいわずに」の主人公である作者・上野は、交わることのないだろう感覚の違和に戦慄するのである。「おかえり」という言葉が返ってくる時と、来ない時の差に。
 妻・キホの死から始まるこの物語には、彼女の姿は回想シーンとして描かれるだけである。今起きようとしている葬式等の儀式の中にあっても、彼は彼女のことを思い、考え、何故私の妻が死んだのかと悩み続ける。喘息で鬱病だった妻をやっかいだなと思った自分に対する責め、だからといって愛していないわけではないし、彼は実際に妻を愛していた。
 でも、それは本当だろうか。私がこの作品を読んで終盤まで不可解だった点がある。自分の子ども・女の子の描写である。彼女にとっては母の死だ。衝撃的な出来事が降って沸いたのは間違いないけれども、彼女は、感情的な描写に支配される作者の描写とは対照的に、極めて冷静な態度でいるかのような描写で描かれ続ける。
 病院で臨終を告げられ「世界は意味を無くした」と言う見開きの場面がある。妻あるいは母であるキホの遺体に顔を埋めて泣いているだろう描写だ。そして二人は溶けてしまう。その前から、アングルや構図が時々ゆがみ、死に対面しなければならない現実感のなさに、作者は物事を捉え切れていない。自分の感情さえ例外ではなく、それがかえって、娘の描写を淡々としたのにしてしまうのだろう。つまり、娘と言えども他人なのである。この作品は、自分の気持ちだけを強調していった結果、妻でさえ、本当はどんな気持ちだったのかをわからなくさせていくのである。病院で母の死に接した娘は、作者・父に問いかける。「まだ帰らないの?」「明日 学校行くの?」。
 火葬を終えて参列した人々に作者は礼を述べる、「キホは幸せでした」と。そして、次のコマで「娘も……」と話を続けようとしたが、次に作者の顔が歪むコマが挿入され、その後何を語ったのかわからないまま挨拶が終わる。実際には何かを語ったに違いない、娘の気持ちを代弁しただろう言葉が、劇中では、この場面で象徴されているように、割愛されているのである。
 だから作者は確認する。本当に自分以外の気持ちなんてわかるのか? 愛した妻と言えども、自分は理解していたのか。「本当に幸せだったのか…?」と。わかっていた、いや、本当はわかっていない……今後も永遠に続くだろう事態を解決する方法は何だろうか。
 そもそも解決できる問題なのかもわからないわけだが、作者と娘は、おそらくそれを無意識裡で察していただろうし、これが現実に違いないのではないか。妻の欝を面倒に感じた時にように、妻のいない日々が面倒くさいんじゃないかと、漠然と思っている。娘が母の死を目撃しながら明日の学校を心配したり、作者が原稿の締め切りに気を揉む。日常生活が崩れることに対し、ぼんやりとしているけれども、確かな不安を感じているのだ。
 不安は、実際にキホのいない日々が始まることで、形になっていく。「おかえり」の返事がないのは、その一つだった。ベッドに突っ伏した作者は、ここで劇中初めて、大きな嗚咽を漏らすことになった。198頁、押し殺しても聞こえてくる、という表現がなされた場面だ。試練はすでに始まっていた。泣いていた娘を知り、自分のことしか考えていなかったことに気付く場面は、娘もやはり作者同様の感情に思い悩んであろうことが想起される。名場面である。
 作者は妻の死をマンガとして描くことを早々に決意し、編集者と話し合う。漫画家としての職業病・「おいしいネタ」だからだろうか。作者本人が言おうと違う。と、あえて否定しよう、何故なら「それでも やるしかなかった」と劇中で描かれているからだ。「でもやるんだよ」精神とは、言わば使命であり義務なのである。キホという確かに存在した人間、それを伝えることができるのは、自分しかいない。彼女と過ごした日々・思い出を紙の上に置いていくことで、作者は確認していく。彼女は、生きていた。生きていたのだ!!
 「キホ」という名前を呟くことの意味が、キホの死を前後して激変したように、「さよならもいわずに」を読んだ後と前では、上野作品を読む眼差しに違いが生じているはずだ。だが、読者は絶望したりしない。さあ、次のマンガを読ませてくれ。
(2010.8.9)

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