「蝉丸残日録」1巻 いまを生きる

講談社 モーニングKC

ツナミノユウ



 ある朝、目が覚めたら蝉になっていたサラリーマン蝉丸の日常を描いてるからと言って、心優しい妹が登場するでなし部屋が物置みたいになるでなし、りんごを投げつけられるわけでもないコメディ漫画が、「蝉丸残日録」である。
 蝉になってしまったというわけで、あと一週間しか生きられないと思いきや……それはお約束としても、昆虫の体質になってしまったために、いつ死んでもおかしくないと悟った主人公・蝉丸の、駄目サラリーマンの日々をモノローグを中心に描く本作は、毎日が死に際とばかりに、最期の瞬間ばかりを気にして、ろくに仕事をしない蝉丸と、それに振り回される同僚たちの心理を詳細に暴き立てる。
 彼らは長く生きられないんだからと気を使い、死んだと思ったら居眠りしてたとか、死んで横たわっていると思ったら自販機の下に転がった小銭を取ろうとしてたり、ベタな設定でありながら、すべてが死に繋がる連想に発展し、カッコいい最期を見せ付けようと孤軍奮闘する蝉丸を生暖かい目で見守る。
 しばしば奇異な言動(あるいは昆虫の本能ともいう)に走る蝉丸の最期なんて物語にとってはどうでもいい建前でしかないことが第1話で明らかにされると、早速2話目から物語は次々とキャラクターを登場させる。知ったかぶってもっともらしく言えばカフカの「変身」と同じ構図なのだけれども(そもそも「変身」の話題を持ち出すこと自体が野暮の極みでなのである)、毒虫と異なるのは、蝉丸が普通に誰とでもコミュニケーションできるという点にあろう。何を考えているのかわからない・だから気味悪がられたそれと違い、会話ができるし思考もできる。ただ、近いうちに死ぬだろうことが悲劇として駆動するのではなく、喜劇として働くのだから蝉になるっていう設定の素晴らしさを実感できよう。
 顔が蝉。ひょっとしたら人間だった頃より声をかけてくるようになったのではと思われる同僚たち。ただの駄目サラリーマンだった彼にとっては異変のはずだが、蝉丸にとってはカッコいい死に方にしか関心がない。たが落とし穴があった。会話はできるけど、彼の表情は蝉ゆえにうかがい知れないのだ。表情が図れない不気味さは、かえってキャラクターとして際立たせた。モノローグでしか彼の心情が理解できないから、本当に死んだのか生きているのかも顔を見ただけでは判別できない。蝉としての突拍子もない言動も手伝い、読者にとっても、彼は得体の知れないキャラクターとして同僚たちのように何かと目が離せない存在になったのである。
 さてしかし、本作の個人的な目玉は女性キャラクターの豊かさにある。年下の上司が時折見せるかわいらしい表情、ひとりディズニーランドに行くことを普通に楽しいと豪語する同僚、昭和ネタで年寄りぶる同期と、蝉丸の最期に拘り気を使う男性社員たちを尻目に、もちろん彼女たちは彼女たちなりに気にはしているのだが、蝉になった彼に男性性を感じなくなったためなのだろうか、警戒心も何もなく彼女たちは平然と業務を蝉とこなすのである。
 発端は当然3話目の上司の蜂須賀である。こんなところで死なれたら迷惑だから!と強調しながら、自分のツンデレ発言に照れて顔を赤くする彼女は、蝉丸がかわいいと思うように、実際に誰もがかわいらしいと思うだろう。図らずもそんな言葉になってしまった展開は、後の9話でも発揮され、蜂須賀の天然ツンデレ性が蝉丸の生きがいになっているんじゃなかろうかというほどに、魅力的なのである。
 具体的に見てみよう。イヤミな女上司という陰口を聞いて凄んだ表情で登場した蜂須賀は、年上とはいえ部下である蝉丸をガツンと説教、その存在を強烈に訴えると、次の場面では上司として年上相手にどう接してよいか距離感に悩む姿が描写される。蝉丸の発言に心中嘆息し机に突っ伏すほどに彼女は落ち込んでいた。もちろんそんな表情を部下に示すわけにはいかない。気分転換を兼ねて自販機に行くと、倒れた蝉丸に遭遇する。ついに死んだかのと思いきや……。彼女の表情は冷たく暗く描かれ続け、蝉丸を助け起こしたと思ったら小銭を拾っていただけというオチに呆れつつも、蝉丸におごってもらうと、思いがけず彼からの謝罪と感謝の言葉をもらうと、「別にアンタの為に心配したわけじゃないんだからね!!」というお約束セリフが降臨してくるのだ(「ね」がポイント高いよね)。それはともかく、ここまで俯きなちな表情で伏せられていた顔が、一気に崩壊・特に焦りに満ち溢れた混乱を呈するぐるぐる巻きの目→次のコマでそのままの目に瞳が描かれるという自分の発言に照れてまたあたふたする二重の混乱が素晴らしい。格別に筆致を凝らして可愛らしく描かれるわけではない。この発言、設定、それらを積み上げた上での「かわいい」なのだ。
 何気ないセリフや日常描写を積み重ねた上で用意されたコントのようなコメディ劇。ラストはきっと、蝉丸の死骸に向かって同僚たちが机の上に立ち「Oh Captain, My captain」て叫んだところを涙目の蜂須賀に叱られると、蝉丸も驚いて人間に戻って息を吹き返すんだ。「泣きながら怒る蜂須賀さんもかわいい」。
(2015.8.24)

戻る