「進撃の巨人」1〜4巻 人間の意志

講談社 講談社コミックス 1〜4巻

諫山創



 人間を殺戮する巨人の出現によって、滅亡の危機に瀕した人類が辿り着いた最後の拠り所・五十メートルに及ぶ壁の中の安全圏に逃れて約百年が過ぎ、平穏が訪れたかに見えた。しかし人類は、再び襲来した巨人に蹂躙され、戦いを余儀なくされる時がやってきた―― 「進撃の巨人」は、中世ヨーロッパを髣髴とさせる設定と背景の下で、巨人との壮絶な戦いが描かれる作品である。
 主人公のエレンは、幼き日に巨人の襲撃を受け、母は巨人に食われ、父は行方知れずという過酷な状況下で育ち、いつか巨人を殺し尽くしてやるという感情を前面に押し出しながら訓練を経て兵士になろうという少年である。似たような環境で寝食を共にするようになった幼馴染の少女ミカサは家族同然でありつつも、超人的な運動能力で兵士の才能において圧倒され、エレンにとっては守るべき存在でありながらも守られているという複雑な状況である。また、喧嘩っ早く協調性に乏しいエレンにとって、唯一の友人であるアルミンの知恵や、兵士として訓練を受ける仲間たちとの交流を通し、エレンは一人前の兵士として次第に成長していくのである。
 ……というように書くと、一見教養主義的成長譚と思えるし、実際にそのような側面はあるわけだが、本作の見所は作者・諫山創の荒々しい描写による巨人との死闘であり、いつどのキャラクターが死んでもおかしくない緊張感を常にはらんだ物語にある。そして設定にいくつもの謎を用意し、巨人が何故存在するのかという物語の核となる疑問にはじまり、キャラクター同士の謎にまつわる駆け引きも描かれ、作品全体(雑誌掲載時はもちろん単行本の作りそのもの)で物語の世界観を構築しようという意志にあふれた意欲作でもある。
 まずは世界観がどのように構築されているのか。作者の年齢(20代前半)から察せられる影響を受けたと思しき作品群やら、エレンが巨人になる薬を父親に注射されていた設定や巨人の弱点である後頭部からうなじにかけての部分、閉ざされた壁の中の人間の世界、ヒロインたるミカサの立ち位置という表面上の設定から「新世紀エヴァンゲリオン」(以下「エヴァ」と略す)を想起する論旨が見受けられるし、確かにそのような論じられ方は、エヴァの知名度を考慮すれば多くの人々に受け入れられるだろう。けれども、物語の表面だけを掬い取ったエヴァとの比較は「進撃の巨人」を見当違いの論旨に迷走させるだけだろう(個人的には「寄生獣」との比較の方が、より作品論の核心に迫れる気がするけれども)。あるいは現代日本の閉塞感と壁に囲まれた・鳥かごの人類という構図の相似から云々という話をする者もいるだろうが、いずれにせよ、マンガの本質からは程遠い論旨にたどり着くだけだ。まず第一に重要なのは、この作品がどのように作られているのかを考える点にある。単行本である。
 隙間なく敷き詰められたかのようなコマ、飛び交う擬音、巨人と対峙する人間の絶望感となすすべなく殺されていく様の印象に引きずられがちだが、まず作品の器である単行本そのものが、すでに「進撃の巨人」という物語を構築しようと企んでいるのだ。カバーを外すと作品の裏設定とも言える世界観の一端を読み解くことが出来るのは、すでに多くのサイトが指摘済みであるのでここでの説明は割愛するが、それだけでなく、カバーの折り返しに書かれた目次や「現在公開可能な情報」と題された作品世界の解説、裏表紙に並んだ10名など、装丁を含めたほとんどの頁に作者の物語に寄り添った意図が塗り込められている(作者の意志が届かないのは奥付だけかもしれない)。足りない頁の埋め草になりがちなそうした頁に劇中だけでは説明できない設定の解説を施すことで、時にユーモアを交えつつ、作品世界からは本を閉じるまで逃れられない状況を作り出しているとも言えよう。夾雑物を徹底的に排除することで、コマの中に執拗に重ねられたキャラクターの輪郭線や背景の草木・建物そして壁の描写がより一層の閉塞感を生み出している。マンガの構図やコマ構成上必須ともいえる空白というキャラクターの逃げ場あるいは読者の視線の逃げ場を遮り、この作品はコマを連ねて間をつぶし、キャラクターの表情だけのコマを並べることで空白や間を表現した。それにより、コマの中を読む者に必要以上に圧迫さが感じられる描写になっている(これは作風とも関連しているので計算の上で描かれているのかは定かではない。また、間の作り方という点について補足すれば、過去に書いた記事を参照されたし→ http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/eigateki/ewm-suzuki.html。4巻の訓練時代の面白さは、「鈴木先生」と通じるものがあるのかもしれない)。
 さて、1巻から4巻で死闘や訓練兵時代の回想に続けて4巻最後でこれからの決意を描ききったところで、作品はひとつの山を越えたと言える。これから物語の謎が明らかにされ、次の盛り上がりを見せることだろうけれども、物語上で個人的に気になっている点を第二の重要点として考えたい。
 第1話の冒頭「人類の力を!!思い知れッッ!!」と突撃する某兵士、帰還した調査兵団(壁の外を調査する組織)に息子の安否を確認する母親「息子の死は!!人類の反撃の糧になったのですよね!!?」という叫びが象徴するように、この世界に登場するキャラクター達は、執拗に自分たちは人類の役に立っているのかと自問自答し、役に立っているはずだ!と悲壮感さえ漂わせながら・自分の死は無駄になるはずがないとばかりに巨人に立ち向かっていく。ウォール・ローゼ奪還という物語前半の山場であろう4巻でも、「皆……死んだ甲斐があったな……」と涙を流す兵士の姿が描かれた。訓練時代の回想においても、役に立つか否かという点は徹底されている。訓練で高得点を得るためには、さほど得点に結びつかない科目では手を抜くというキャラクターが登場し、どの科目にも真面目に取り組むエレンたちを嘲るような場面もある。今、自分たちがやっていることは人類にとって意味はあるのだろうか? この問いかけに縛られるキャラクターたちは何を意味しているのだろうか。
 物語の世界で人間を統括していると思われる王政府と呼ばれる人々の統制手段として、壁の外の世界に関心を示すことをタブー視させる傾向がアルミンに指摘されている。壁の外にいる巨人を中に入れさせないため、という注釈があるものの、外に広がっているだろう未知の世界への憧れは、生来人間が持っているはずの好奇心だ。劇中ではエレンの父が「探求心」と言って、それは抑えられるものではないと語ったけれども、この好奇心は、第14話、まさにその山場において「原初的欲求」という副題で登場した、つまり「自由」に他ならない。それは、人類の役に立つか・人類にとって意味があるのかどうか、という自縛的な思考から切り離された素の気持ちだ。王政府の政策は、人々を知らず知らずのうちに、人類にとって役立つことだけをせよ、と洗脳していたのである。
 だがしかし、3巻でピクシス司令が兵士たちに向かって「ここで死んでくれ!!」と声を張り上げた時、全員が帰ろうとする足を止めたのは何故だろう。彼等兵士がきびすを返し戦線に残ったのは人類のためではなかった。壁の奥にいる家族のため友人のためだったではないか。この戦いは、人々が「自由」を垣間見た瞬間でもあったのである。
 「その日」以降、人類にとって巨人との戦いは避けて通れないものとなった。これまで意味があるのか判然としなかった調査兵団の活動も、人類の生存地区奪還という目的のために動き始めるだろう。だが、人類のため、という足枷がある限り、人間を捕食するためだけに襲撃してくる・原初的欲求に基づいて行動している巨人に対抗できるだろうか。対抗しうるのは、そんな大義名分から解き放たれた、「戦え!!」という自由な欲求に突き動かされたエレンたちであり、その強い意志こそが、希望なのである。(2011.4.11)

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