山中ヒコ「死にたがりと雲雀」1巻

よるべなき闇

ARIAコミックス 講談社



 何かしらの理由で、他人かそれに近い間柄でしかなかった二人が暮らしを共にする行く末を描いた物語と言えば、恋愛やら擬似家族やら、いろいろな作品を思い起こすだろうけれども、大体において、それらにはきっかけが用意されている。年の近い男女ならば容易に恋愛方面へと至ることは察しが付くし、きっかけ自体をコメディ要素として描写することも出来よう。だが、大人と子どもが共同生活を送る理由となれば、一筋縄ではいかないはずだ。少なからず身内がいるだろうし、主人公が子どもと遠い親戚だったという尤もらしい理由があるやもしれないが、全くの赤の他人となると、親戚でもなく更に格別親しくしていたわけでもないとなれば、その障壁やいかばかりか。ところが、山中ヒコ「死にたがりと雲雀(ひばり)」は、赤の他人である大人と子どもが一緒に暮らすためのきっかけとして険しいはずの高い壁をたやすく乗り越え、なかんずく物語として期待感を煽るミステリアスな要素を備えているのだから、面白くならないはずがない。
 浪人・朽木が廃寺で寺子屋を開いたところから物語は始まる。侍でありながら農作業に長けているらしい彼の素性は、それだけで謎めいているし、そもそも何故寺子屋なのかも判然としない。冒頭の数頁で、彼に対する妄想ははかどるわけだけれども、この本の表紙には、彼と抱き合う少女が描かれているわけで、この二人がどのような経緯によって、かの場面を迎えるのかがとりあえずの読む動機となろう。
 やがて長屋で起きた強盗殺人の犯人が、廃寺に住み着いた浪人ではないかという怪しげなる噂を聞きつけた長屋に暮らす三人の子どもたちは、少年探偵団ばりに調査しようと乗り込むも、朽木に学問に興味があるのかと思われて、成り行きで筆と紙を持たされることになる。
 その子どもたちの中に、少女・雲雀が大将格として座していた。皆がみな、てやんでぇ口調で話すものだから、少女といえど、その風情はすでに江戸っ子のそれであり、本人もその自覚が強い。だが、物語の視点が朽木から雲雀に移行すると、彼女の内面がたちまち浮き彫りになる。
 母が亡くなってから仕事にも精が出なくなり、家にもあまり寄り付かなくなった父が、恋しくて仕方がないのだ。雲雀は夜更けの風が戸を叩く音に父が帰ってきたと歓喜するほど帰りを待ちわびていた。そうして久しぶりに帰ってきた父が雲雀との会話もままならず布団に突っ伏して粗雑に脱がれた上着を畳もうとしたところ、懐から小判がカシャンカシャンと落ちてきたのである。寺子屋で数の数え方を習ったばかりの雲雀は、その数が、強盗が盗んだ小判の枚数と一致することに愕然とするのだった……
 というわけで、雲雀が父を失う設定が準備される。もちろん、そんな設定なんぞに目もくれずに雲雀ちゃんかわいいよーという視点でも十分に楽しく読めてしまうのだけれども、表紙の泣きながら抱き合う二人が気になって仕方がない。
 一方で、長屋の強盗殺人の下手人を追う同心の細目という朽木同様に一癖ありそうな役人が登場する。廃寺の浪人が胡散臭いとばかりに朽木の前に姿を現すわけだけれども、彼は捜査直後から下手人の目星をある程度付けていたわけで、むしろ娘である雲雀を張っていたと見るべきだろう。寺子屋に出入りするようになった彼女を追ううちに、物語の中核たる朽木と細目が出会い、狭間に雲雀が立ちはだかる構図が出来上がると思いきや、雲雀は下手人は朽木だと細目に訴えるのだ。そして、やり取りの中で自分が犯人だと自白してしまう朽木の心情……
 結局、細目はすでに雲雀の父を捕らえており、朽木がそうまでして守ろうとしたものが何かは曖昧なままだが、その後の彼の言動から、自分の命を平気で投げ出せる生き方を貫いているのかも知れない。タイトルの「死にかだり」のゆえんだ。おそらく、雲雀たちとの交流を通して守るべきものが出来た朽木は、死にたがりから変化していく未来も垣間見えよう。または朽木と細目の因縁浅からぬ過去も会話の端からのぞき見える。まあ、それはともかく、父への想いゆえの発言とはいえ、雲雀の複雑な心中も余りあり、今後二人がともに暮らす図面がまだ見えない。
 盗人の子だと言い張って虚勢を張る雲雀をぐっと抱き寄せる朽木だが、すぐに雲雀を引き取るわけではないのだ。
 結論から言えば、雲雀は自ら朽木と暮らしたいと訴えてくる。
 父が遠島され、身寄りを失った雲雀を長屋の人々がどうにかして面倒をみようと奔走するも、それら温情を振り切って雲雀は、大晦日の夜、廃寺で除夜の鐘を打つ朽木の下に駆け寄った。独りになったことを実感する場面で、雲雀は訳もわからず泣き続けてしまうのだが、その感情を言葉にする術を知らない。だが寺子屋の先生なら知っている。「先生 オレを寺に置いておくれ」
 物語には、誰の者ともつかないナレーションが時折挟まれる。雲雀の心情を説くナレーションは朽木と同一化していると思われるものの、その言葉のひとつひとつに、恐ろしいほどの冷たさを感じる。その後の挿話では、他の少年のモノローグとして快活な言葉が並ぶこともあるけれども、主人公自身が抱える冷たさは、別に少年たちと接している中で発露されることもないし、親しみやすい浪人という風情かもしれないが、朽木の過去を踏まえたと思しき冷めた視線は、死にたがりと細目に呼ばれる朽木の裏の顔を想起せずにいられないのだ。
 一見暖かいように感じられる朽木の態度や雲雀との触れ合いが、実は一瞬にして失われるのではないだろうか、という不安が物語の端々に描かれているように感じる一因でもある。そして、背景の黒さが際立つ。
 夜の背景が黒いのは当然だろうけれども、キャラクターが躍動している中で、夜だからと背景を黒くすれば、どうしても集中線を白い線で描くこともあるだろうが、いずれにせよ窮屈な印象をぬぐえない。だが、この黒さを作者は逆手にとり、江戸の夜更けを表現した除夜の鐘が響き渡る場面で、「ゴーン」という、かすれそうな白い文字を乗せたのだ。星もなく月もない。江戸の夜空の奥の奥にまで届いていきそうな黒い背景が素晴らしいのだ。
 さてしかし、この黒さは夜だけではない。回想場面で背景やコマ枠の外を黒くすることは珍しいことではないが、昼間の陽だまりの坂の地面を真っ黒に塗りつぶした場面に遭遇したとき、はっきりとそれは、この坂で起きたかもしれない悲劇を察したキャラクターの心情そのものの絶望感なのだと理解できるのである。
 坂の上から転がり暴走した大八車に侍と少年が下敷きになったらしい、という話が雲雀の耳に届く。実際は、朽木が少年を抱えて大八車をよけたと思われるのだが、その場面は描かれない。雲雀の悲壮感が強調され、転びそうになっても走り現場に向かう彼女の必死な思いは、真っ黒になった坂の場面で一気に絶望感に転落した。
 少女にして独りになった時の夜の暗さと本当の闇を知っているのだ。夜の真っ黒とはまた違った孤絶感を、山中ヒコは黒さで読者に訴える。この場面には鳥肌が立った。朽木が間一髪で車をかわしたんだろう、という浅はかな予測が吹き飛び、雲雀の気持ちに同調した瞬間でもあった。
 大人と子どもというキャラクターの関係性において、とかく庇護者として読者から見られてしまう子どもを、仕草がかわいいとか愛らしいという視点でにんまりしながら子どもの言動を受け取りがちな読者の安易な姿勢を、ばっさり切り捨てたかのような坂の黒い地面に、身寄りを失った者の本当の悲しみは、闇の描写にこそ映えるのだと改めて思い知らされたのである。
(2014.5.19)

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