「しんきらり」

ちくま文庫「しんきらり(全)」(1988年刊行)、青林堂「しんきらり」(1982年)、「続・しんきらり」(1984年)

やまだ紫



 難解な言葉を連ねることなく、もったいぶった「文学的」な表現でごまかすこともなく、率直に、さりとて軽薄でなく、平易な文章で日常のふとした感情を絵と文字で柔軟に切り取ってみせながら決して格好つけない漫画を書く作家がやまだ紫であり、その体現が「しんきらり」という作品です。
 主人公・山川ちはるは二人の娘をもつ主婦です。その日常風景の断章の寄せ集めといえる数々の挿話はいずれも中途半端でなくきっちりとまとめられていて(それぞれ主題があるのです)、作者の才がうかがえます。とくに子供の描写は自身の母親としての体験を参考にしているらしい説得力があり、また夫の描写も妻の経験に作家としての本分・物語性というものを忘れることなく心の機微を繊細に語り、抜け目がありません。柔軟な細い線からは想像できないほどの辛辣な内容まであり、それは作者そのものの姿でもある(らしい)のですが、それはおいといて作品を見ていくと、主婦という枠にこだわらずに果敢に生きようとしている真剣さが、ひとこと、格好いいのであります。ひとところに安穏とせず前進しつづける生命力は、夫の帰りが遅いことに対する夜の侘しさや次第に自分から離れていく成長する子供たちに対する寂しさが源泉かもしれませんが、大人になったと満足してそこで成長(勉強)することをやめてしまった人々への不満を表明した「泣いた赤鬼」の巻のラストシーンの「まだ、成長をやろう」という呟きにその発端が現れます。そして職探しをはじめる妻に、夫は半ば呆れ半ば驚きながら「ムホンだ」と言うしかない(この言葉の感性も絶品、さすがに詩を書くだけのことはあるよ)。
 夫婦の間の微妙なずれも描かれます。「わたしは誰か」の巻で「日曜日が嫌い」とはっきり語る主人公のナレーションは夫という立場の人にとっては実に恐怖でしょう。いつもは会社に行っていないはずの夫の面倒まで見なくてはならない日曜日。自分は夫のことをなんでも知っていながら、夫は自分のことをどれだけ知っているんだろうか・・・休日を自由に過ごせる夫への激しい嫉妬を自覚して冷静になろうと努める主人公の後姿の虚無感のような陰が印象深いです。
 家事に務める妻の姿に馴れきった夫の怠慢は、不信感を増殖させます。短い挿話の連続の中から次々とあぶりだされる夫婦の亀裂は生々しいくらいです。妻のパート勤務が決まってから表面化した二人の不和は「微熱」の巻で破綻の兆しを呈します。前述「わたしは誰か」と合わせてみると、夫の立場はなんて卑怯なんだろうという苦々しさが唾とともに口中に広がる感覚、口を利くのさえ煩わしくなるような疲労感。頭痛をこらえながら家事をする妻を忌々しげに一瞥する夫の態度は明らかに、妻が休むことに腹を立てているわけであり、平日たまたま休日になった大人を「働け」と言いたげな顔で通り過ぎる他の大人のような、なんだかとても理不尽な苛立ち・嫉妬、自分はこんなに懸命に働いているのにオマエハ楽ヲシテイルという本音を隠して微笑んでいる。「労働」が美徳化した果てに人々に宿った奴隷根性とでも言える奇妙な感情に支配されているようで、ここで語られているのはフェミニズムではもちろんなく、一個の人間としての生き方をひたすら模索している女性の日常を淡々と描いているに過ぎず、そこから浮かび上がった卑劣で汚泥にまみれた諸々の感情を「詩」に託して清算しています。やがて夫の浮気が発覚し、いよいよ離婚の危機かという場面になってようやく夫は譲歩します。妻の苦しみにあまりに遅く気づいたことを反省して、それ以後夫の妻に気を遣う描写がところどころに挟まれています。そしてパート勤務を辞めて(正確には会社の都合でくび)、家事に専念すると思いきや、さらなる飛躍を目指す主人公はたくましい。たしかに、このまま夫が思いやりを示すようになって妻が勤めを辞めたとなれば、妻の行動はほんとに「ムホン」に過ぎないわけで、妻は、真意はそこにあらずという矜持を夫が譲歩したことに乗じて強く押し出します。貯めたお金で人形を作りブティックの一角を間借りしてそれを販売する、という企画に参加し、自分の作ったものが売れるという働く手応えを知って主人公もまたあることに気付きます。
 子供はやがて独り立ちします。それを喜びながらも心中なかなか穏やかならず、夫は会社に逃げ込み、自分だけが家庭という入れ物に置いていかれるのではないか・自分の存在はそのうち不要になるのではないかと不安が広がりつつも、家族関係を下手にぎこちないものにしたくない錯綜した気持ちに苛立つ日々に耐えるのが主婦というお仕事だったのかもしれません。ですが、働くようになって気付いたこと。それは、夫も同じ事を恐れていたということでした。妻は働いて収入を得て、そのうち子供とどこかに行ってしまうのではないか・・・休日、自分の居場所のないことに愚痴を言う夫・父親の姿は滑稽であり哀れでもあります。そして、山川ちはるは、働き始めて「家庭という入れ物」を客観視したところ、案外自分は自由だったんだなって悟るわけです。妻も夫も、互いの固定観念に知らず知らず固執していて、対立する理由もないのに対立して双方傷付いてひとり悩み・・・結局なにが足りないか、それはお互いがお互いを思いやることっていう言うのは簡単だけどするのは難しいことなんだろうなって想像するのです。
 そんな夫婦の深刻なやりとりの緩衝材が二人の娘です。無邪気に母に甘え父をからかう子供の描写。特に「どしゃ降り」の巻は白眉でしょう。一読を勧めます。

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