高松美咲「スキップとローファー」8巻

フワフワの志摩くん

アフタヌーンKC



 7巻のラストで「完」と表示されても不思議でなかった衝撃の展開にゲラゲラ笑いながら、待ちに待った8巻で、主人公のみつみと志摩くんはどんなカップルになっていくのかと思っていたら、ちょっぴり乙女ごごろを残しつつ、あまりにも優等生らしい現実的な選択に、がっかりしてしまったのはここだけの話で、物語自体は、いよいよ生徒会長となったみつみを中心に、さらなる波乱が期待される続刊が楽しみな作品である。
 田舎から東京の進学校に入学したみつみが高校生活を送りながら、みつみを中心としたキャラクターの群像劇を描く「スキップとローファー」も8巻目に突入し、生徒会選挙を控えた大事な時期に至って、みつみは思いがけず志摩くんに告白してしまう。その表情に何かを察した志摩くんによって、二人は付き合ってみることになったけれども、どうにも何かパッとしない。私としてもドキドキの始まりかと思いきや、なんだかいつもの二人の日常と変わらなくて、それは8巻冒頭の42話で描かれてはいるんだけれども、ホントに付き合い始めたんだよね? とみつみだけでなく読者も訝しんでしまうような展開なのである。
 ドキドキが、ないんである。そりゃもう、びっくりするくらい。
 本作の副題の枕には、繰り返し語がよく用いられる「ぴかぴか」とか「そわそわ」とか「うろうろ」とか。となれば、いよいよ満を持して「ドキドキ」が使われるのかと思いきや、42話は「ドギマギ」で、まあ付き合いたてで、いきなりドキドキ展開は気が早かったよと一読者として反省しつつ、本編を読み始める前から目次が不穏なのである。「ちぐはぐ」「くしゃくしゃ」「ザワザワ」「ぽかぽか」「ぱらぱら」。
 あれ? 「ドキドキ」は早いにしても、初デート編でぎこちない感じの「ぎくしゃく」とか、人気者の志摩くんにみつみが嫉妬して「イライラ」「ヒヤヒヤ」とか、いよいよ友達に付き合っていることを話して「きゃっきゃっ」したり「ぱちぱち」とささやかな拍手で祝福されたりとか、何かあるんじゃないのかという楽しみが見えない。
 ドギマギはわかる。友達から恋人になっていつもの感じがぎこちなくなってしまう、そういうこともあるさ。ちくはぐ? うまくいきそうもないのか? 気持ちのすれ違い? くしゃくしゃに至っては、え? 意味が分からん。付き合おうと決めてから何故たった3話でもうピンチなんだよ。この巻は二人の初々しいイチャイチャを楽しめるんじゃないのかよ……
 宇宙の果てまで飛んだかのような意識が戻ったみつみ、42話の扉絵から、みつみと志摩くんの対話は、意を決して志摩くんにバレンタインチョコを渡して告白したミカとの対応とは明らかに異なる描写である。あっけなく散ったミカは、志摩くんの優しさをかみしめながら日常に戻っていくが、みつみと志摩くんの対話は、渡り廊下の真ん中でひっそりと行われており、学校生活の一コマとして周りの生徒たちの声を加えることで日常に回収される。それくらい特別感がないのである。もちろん、みつみの頭の中はそりゃもう大騒ぎで宇宙遊泳してしまうくらいなのだけれども、志摩くんにとっては……モテモテの志摩くんにとっては、たいしたことではないのかもしれない。いや、ミカとは明らかに違った反応なのだから……それでも、何か引っかかるような志摩くんの言葉や表情の真意は、後に明かされることなる。
 クリスに愚痴る志摩くんの言葉が、彼がこれまで経験してきた結果による心の壁というか心の闇の深さ・どろどろ具合を想起させた。言葉にならない感情とはどういうものなのか?  「砂みたいな…」と独り言ちるようにクリスに応えた志摩くんではあるが、本当の表情がはっきりと描かれることはない。
 ああ、そうなのか。みつみのウキウキした心の持ちようを描くのではなく、彼女によって波風立った周囲のキャラクターたちの心のありようをこれまで描いていたように、この巻では特に志摩くんの表情を描こうというのか。なんという作劇、みつみすらキャラクターの一人に過ぎない、まさに群像劇。
 志摩くんの幼少期の回想あるいは夢から見える母との微妙な関係性は、まさにドキマギしながら母の表情をうかがっており、みつみとの関係性さえも暗示するかのようだ。志摩くんの主観から描かれる朝の学校の廊下で出会ったみつみの満面の笑み・ささやかな会話でさえ楽しいひと時に変化する「特別認定」というお墨付きに対して、うつむいた志摩くんの、やはり本音は隠されて・つまり表情ははっきりと描かれないのである。不安しかない。
 お付き合いを決めた直後から、このありようである。すぐに志摩くんの心情に焦点があてられるのは道理だ。演劇部の次期部長に先輩から誘われるも、即座に否定する。控えめでフォローする側にいることに安堵する彼は、主人公よろしく振舞うことを極端に厭うのは、これまでの経験を考えれば無理からぬことだった。トロフィーとしてのカッコいい少年・そして青年として周囲から担がれることへの嫌悪感は、幼少期から積み上げられていたのだから。
 対照的に登場するのが、八坂である。男子生徒をいとも簡単に虜にしてしまいかねない魅力的な女子生徒として、当然のように同性からは警戒され嫌われているけれども、そんなこと本人は百も承知なのだ。モテモテ志摩くんが長じて目立たないように前に立たないように振舞おうとする一方で、自分の魅力を最大限に活用するキャラクターとして、いよいよみつみと絡む展開なのである。
 思いがけず二人のお付き合いを知った八坂の寝起きから始まる44話で、彼女の抱える問題があっという間に手早く描かれてしまう。優等生でとてもいい子でみんなに愛されて育ったことがわかるキャラクターとしてのみつみが家族との様子を丁寧に描くのと同じ分量を割いて八坂の家族関係を描くわけにはいかないのは、それはそれで主人公特権なわけだけれども、多くの人から届いていたお誘いのメッセージに対し、おそらく一つ一つ返事を出している。わざわざ早朝に目覚ましをかけて起きるほどに、大量の言葉を相手に送りつけている。ほとんど同じ文言で返信してさばいているのだろうが、薄暗い部屋の中でスマホの光だけが顔を照らす中で描かれる彼女の部屋の様子が、全てを物語っていた。スマホの画面は誰に割られたのか、自分で割ったのか? 親が置いていっただろうお金なんておまけに過ぎない。クリスの部屋に飾られたポスターから彼の趣味が推し量れるように、八坂の部屋の様子から、彼女の生活や姿勢が読み取れる。自分の生活を差し置いて他人の気分(この場合は好意)を傷つけないように、慎重にふるまっていく。女子生徒から嫌われるのは致し方ないと割り切る。みんなから嫌われないような態度なんてできないからだ。
 八坂のモノローグに、いたく共感してしまう自分がいた。みつみを客観的に評価する冷静な視点により、何となくわかっていたけど実は窮屈でもあった。みつみの圧倒的正しさは、正しいがゆえに誰も反論できず、正しいがゆえに、澱みのない通り一遍なキャラクターと化しつつあった。理想でありつつ、所詮、理想でしかない。同性からの評価を意に介さない八坂の返信によって、奇しくも、みつみは自分の中にある利己に気付かされた。「特別になりたかった」という利己的な想いに。
 さてしかし、こんなものは恋愛を描こうとすれば避けて通れない心理なのだ。仕方ないさ……でも、きっとみつみは、それに対して自分はもちろんのこと、みんなも納得のいく答えを導いてくれる気がしている。
 八坂のモノローグを引き継いだみつみのモノローグに、体育館のふっと浮いたバレーボールが描かれる場面が被さった。クラスマッチの最中に起きた出来事だからというのもあるだろうし、八坂と一緒にみつみも体育館に戻ったという意味だろうが、理屈抜きでとにかくいいと思った。
 これからどちらかのコートに必ず打たれるボールがあった。打たれなくても、どちらかのコートに落ちていく。中間はない。中間を行こうと必死にもがく志摩くんだけど、どうしたってどちらかに落ちざるを得ない。自分のコートしか知らないみつみが、八坂が立っているコートの存在に気付いた。志摩くんは? 志摩くんは自分側のコートに落ちてくるはずだ、という思い込み。
 どこに落ちるかわからない、時間が止まったかのようにフワフワと永遠に浮いているように思える志摩くんの心は、砂のように掴みどころがないけれども、46話のラストのように、どうかみつみよ、その手を離さないでほしい。そして早く「ドキドキ」のエピソードを見せてほしいのだ。
(2023.1.30)
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