猪ノ谷言葉「ランウェイで笑って」5巻

見える才能、見えない才能

講談社コミックス



 第1話が話題となった猪ノ谷言葉「ランウェイで笑って」が連載開始から1年が経とうとし、単行本も5巻まで上梓された。最初のインパクトはファッションモデルを目指すべきと宣する千雪が主人公として始まった物語が、実はデザイナーを目指す都村育人の物語だったという意想外な展開や構成の巧みさに注目されたが、連載が長期に及んでも、第1話の新鮮さを失わずに今に至っている。
 本作の根底には各々のキャラクターが背景に抱えている設定・人生の物語に焦点を当てることで、全てのキャラクターが主役になり得る自由な展開を可能とした、群像劇の趣も備えている。基本的にはデザイナーを目指す都村を主人公と見る向きがあるだろうが、ファッションモデルを目指す千雪の物語を並行して描くことで、キャラクターには明確な得手不得手が存在し、互いに引き立て合いつつも、才能やセンスの有無による結果を時に痛々しく時に生々しくキャラクターに、そして読者に突きつけてくる。デザイナーの柳田の下で雇われた都村は順調にステップアップしているように見えるが、千雪の場合はファッションモデルとしては致命的な身長の低さがステップアップを阻んでいる。その両者の違いをより鮮明に描いた5巻に注目してみたい。
 その前に、まずキャラクターの才能がどのように描かれているかを、ざっと振り返ってみよう。
 前述の通りにキャラクターはあるときは主人公に、あるときは脇役として、個々に大きな軸として存在している。都村のデザイナーへの夢という物語を補完しながら、他のキャラクターの物語を、都村の好きな柄・チェックのよう織り交ぜて物語が進んでいく構成を取っているのだ。例えば彼の母親視点の物語では、彼の三人の妹たちとの交流を描きつつ、家庭環境がクローズアップされ、貧しさゆえのお金の問題が切実に迫ってくる。その一方、綾野遠という有名ブランドの孫にして天才的な若きデザイナーとして都村の前に現れたキャラクターには、金持ちの余裕みたいな挿話を焼肉回として描きながら、新たな展開を予感させる舞台を用意し、都村と対照的でありながら、都村の物語に織りなすように絡み合ってくる。さらに、綾野は身体をハグすることで瞬時にスタイルを見通してしまう優れた能力を持っている設定を与えることで、都村が持っている能力(彼もまた、三次元のデザインを二次元に起こす型取りに天才的な能力を発揮することを脇役キャラに指摘されている)との対比関係に、異なる能力を用いながらデザイナーとして互いに研鑽し競い合うだろう将来も期待させる。
 群像劇の一面もある以上、当然、綾野視点から都村を描く挿話もある。柳田の職場のスタッフ不足に都村の誘いに乗った綾野は、柳田の実力を窺いつつ、都村の実力も見極めようと無知を演じて彼を試すような振る舞いをする。過去に多数の有名デザイナーを輩出している服飾芸華大学の学園長がその実力を過去の生徒を含めてトップと評する綾野だからこそ、彼のセリフには自ずとキャラクターのデザインセンスや裁縫を評価する視点が生まれる。
 柳田、綾野、学園長など、多数の解説者の視点を用意することで、都村をはじめ本作のキャラクターたちは多角的に才能を見出され評価を下され、読者を十分に納得させるだけの能力を劇中で披露できることになる。デザインという、マンガで存分に表現できてしまう空間において、センスや才能という曖昧な定義は、描けてしまうだけに読者自身がデザインの良しあしを判断する解説者に堕しやすい。それを回避するうえでも、より優れたデザインを実際に絵の中に落とし込む必要がある。読者をも説得させる抜群のデザイン性を描く、これは大きな課題であろうけれども、5巻において、本作は明快にセンスの定義を宣言することでになる。
 さて、綾野によって改めて解説された都村は、当初こそ家族のために好きな服飾に励んでいた貧しさの中の努力家のような印象があったものの、彼も天才的なキャラクターであることが理解されていくのだが、一方の主人公である千雪はどうだろうか。彼女は158cmというモデルとしては致命的とも言える低身長により、いくらスタイルの良さやモデルとしての矜持や資質に溢れていようとも、全て身長を理由に否定されてしまう。都村が恵まれた才能により他のキャラクターとの交流を通して成長していくのに対し、千雪のモデルとしての才能は、身長という覆しようのない・成長しようのない現実によって支配されており、一読者ながら、その絶望的な環境に将来が見えない。わずかな光明として、都村の成長やファッション雑誌の新人記者・新沼の存在があるのだけれども、多くの読者も彼女には不安しか感じていないのではないかと思う。だからこその一発逆転が物語として期待されていくのだが、物語の落とし所としては5巻で一瞬可能性が見えた新沼の紹介により注目され飛躍するとか、都村がデザイナーとしてブランドを立ち上げ、千雪を専属のモデルとして雇うとか、そんな夢物語も妄想するのだけれども。いよいよ才能の差というものが如何ともし難いことを突きつけてきた。
 というわけで、選考会を通して描かれたセンスについて読んでみよう。選考会は、人気モデルでタレントのセイラを題材に、彼女の服を三分の一ドールの大きさで作るという課題が提示される。自己負担の1万円が予算である。だが都村は五千円を用意するのがやっとだった。妹から使っていいと渡されはしたものの、彼は入院中の母を想い、五千円での参加を強要する。認められはしたものの、後に綾野から手厳しく、その姿勢を非難されるわけだが、それはまた置いといて、話がそれたついでに、何気にお金の入った封筒を「キュツ」と握りしめる場面が個人的に好きである。この「キュッ」は、妹のほのかが母からお金を受け取る場面でも用いられた擬音で、苦労して工面した現実に胸が締め付けられるという感じの「キュッ」を思わず手に力が入る擬音に重ねている。細かい場面だが、この作品の繊細な表現の一端が垣間見られよう。
 さて、都村は他の参加者の半分の資金で資材を購入し、服を作らなければならないという状況に直面する。もちろん読者として期待するのは、それでも都村が高評価を得て選考会を突破するという物語だろう。では、そのような理想的な展開を迎えるには一体どのような物語が必要になるだろうか。これはファッションモデルとデザイナーの物語である。3巻において、ファッションモデルとして高く評価を受けながらも、デザイナーを目指す長谷川というキャラクターが登場する。彼女は都村と同じ柳田の事務所で働きながら、都村を先輩と親しみを込めて呼び、二人は同僚として親睦を深めていくことになる。
 これまでデザイナーとモデルという二つの才能を並行して描く構成を取っていた物語が、この二つを融合することでデザイナーにとっての才能とモデルにとっての才能というものが鮮明になる。何度も描かれ、本稿でも指摘した千雪の低身長という欠点が決定的にモデルとして通用しないことを読者は散々に突きつけられてきたわけだが、一方でファッションモデルの才能がどのようなものなのかということも同時に知ることになる。
 「存在感」とは随分と曖昧な言い回しのようではあるが、本作では長谷川の存在感を、キャラクターの表情を一変させて描く、という演出で表現している。長谷川の普段の顔は、都村とのおしゃべりやデザイナーとしての職場での表情を見るに、丸っこく温かみのある目をしているが、モデルになった途端、劇中でも指摘されているように冷たく、全てを諦めきったかのような静寂と相手を釘付けにするかのような圧倒的な視線で、存在感を訴える様子はさらに背筋がゾクッと凍える演出によっても印象を強くする。
 さてしかし、読者はこの存在感というものをどのようにして納得したのだろうか。この手管は2巻のハイライトであり本物語の最初の山場であるファッションショーにおいて、説得力ある解説が施された展開を目の当たりにすることで獲得したものだろう。千雪の初舞台でもあるこのショーにおいて、彼女が登場した瞬間、あまりにも小さい身体に会場が俄かにざわつく。新沼の視点によって、彼女自身が抱えていたオシャレについての劣等感を描きつつ、それをものともしない千雪の存在感が新沼を力づけるわけだが、都村が修繕した服を身に纏って堂々とランウェイを歩く千雪の姿に、会場の人々は何か意図がある演出ではないかと考え始め、口々に背の小さいモデルだからこそのファッションではないかと思い 、欠けたヒールが影響して転びそうになっても、それさえ演出の一つとして千雪は歩き通すことで、裏面のほつれを隠しきり、柳田のショーは成功に終わる。この挿話があったからこそ、読者は理屈でもって千雪の存在感というものを意識しただろう。だが、長谷川の存在感はそのような理屈を全く必要としない。唐突に登場し、唐突にキャラクター達を凍り付かせる。千雪が丹念に都村と築き上げた舞台裏の努力を描かず、長谷川はただ登場するだけで、周囲を圧倒してしまう。有無を言わさぬ存在感というものを発揮し、理屈では説明できないとは同じようなことをキャラクターも劇中で語るわけだが、身長そのものが存在感としての価値であるというより、努力でどうこうできるようなものではない、天才性としか言いようがないものを描いてしまうことで、千雪の将来はなお一層暗雲の中に閉じ込められてしまうだろう。一方、津村は選考会において発想の飛躍を全面に押し出した服をデザインすることで選考会を突破することに成功する。もちろん、ここでも学園長の都村の才能を見抜くセリフを怠りなく挿入することで彼の天才性をもう一つ補強しているわけだが。
 モデルとデザイナー、その才能を表現するにはどちらも具体的に描かなくてはならない。音楽漫画であれば、劇中のオリジナルソングなりオリジナル曲は観客の反応や音楽評論家たちの、素晴らしいとかすごいというような解説により、劇中では優れた曲であること・その良さを、とりあえず、読者に伝える演出ができるだろう。だが、モデルにしろデザインにしろ、マンガであれば実際に描いて読者の目に晒されることになる。その時、作者の描いたモデル・デザインがある読者にとって優れていると判断されなければ、彼にとってその作品は途端に、いくら劇中のキャラクターたちが誉めそやしたところで、彼はかえって興ざめしてしまうことだろう。この選考会において重要な展開は、そういった優れたデザインというものは、実は個人の主観でしかないということをはっきりと主張した点にある。ここ大事、ここは本当に大事だ。結局、行き着くところファッションセンスというものは、個人の好き嫌いに支配されやすく、客観的に評価するのはとても困難であるということである。
 ではこの作品はその問題をどうやって避けたのか。「面白い」か「面白くない」かという点に置き換えたのである。すなわちこれは、作品として物語として面白ければ、そのデザインも面白いと評価され得るということだ。都村がデザインした服が実際に面白かったかどうか、もちろん個人の意見は様々だろうが、少なくともこの衣装を、パジャマという選択眼は十分に物語として面白いと判断できるのではないだろうか。それでもこの展開をつまらないと思ってしまえば、パジャマというデザインそのものが、いくら奇抜であったとしても選考会を突破するほどのデザインとして思われることもなく、興ざめしてしまうということもあるだろうし、そんな物語が裏であったところで綾野は「客には関係ない」と、ばっさり切り捨てもする。おそらく、そうした読者は離れていく。そんな可能性を覚悟しながら、作者は勇気をもって、そのデザインを劇中で披露し、選考会では1位から3位までのデザインが描かれたのだ。正直どこにどれほどの差があるのかは分からない。分からないし、これ自体も個人の好みによるころが大きいだろう。いずれにせよ、今後も作品には様々なデザインが描かれ、読者の査定の目に晒されることだろうけれども、そのデザインがいかにして生まれたのか? という物語が面白ければ、必然的にそのデザインも面白いものとして思われるの違いない。
 一方のモデルはどうだろうか。身長は一目瞭然である。おそらくキャラクター表によって身長差は明白になっているだろう。実際に描くことで身長という才能の違いをデザインよりも容易に表現できる(描く側としては読者が想像する以上に簡単ではないんだろうけどね)。存在感という曖昧な定義も、音楽漫画同様に周囲を驚かせモデルに詳しいキャラクターにその存在感を解説させれば、モデルの存在感がとりあえずは完成する。
 すなわち、モデルの才能は絵で表現でき、デザインはストーリーの面白さで表現できる、ということだ。今後も才能とそれに抗うキャラクターたちや、第1話のように互いを引き立て合うキャラクターの関係性を丁寧に積み上げていきながら、面白いデザインを読むことができるに違いない。キャラクターたちが縫い合わせ紡ぎあげる物語に一つ一つのセリフや言葉を……「言葉」を信じているから。

戻る