「ソラニン」

小学館 ヤングサンデーコミックス 全2巻

浅野いにお



 浅野いにお作品に登場する端役は類型的で薄っぺらで単純化されている。そこには彼らもかつて主人公たちのように懊悩し苦悶した過去があることを微塵も感じさせない侮蔑がにじんでいる。平凡な人々に対する漠然とした嫌悪がある。そういう作品は、時に青臭いと呼ばれる。で、実際に青臭いと感じている自分がいるわけだが、「ソラニン」の主人公たちは、やがて自分たちもそんな世界の住人になってしまうんだろうという意識の中でもがく姿を真っ正直に描かれている。作画については個人的にいろいろ言いたいことはあるんだが、まあ今回は横に置いといて、この青臭くも泥臭い青春劇にだらっと浸ってみたい。
 さてさて、自意識溢れる人ってのは端から見ると近づき難い人になるんだが、若い頃ってのは多かれ少なかれみんなそんなもので、誰にも気にされていないことを後で理解して愕然とする。「ソラニン」の主人公・芽衣子も種田との同棲やOL生活に漠然たる不安を抱きつつ騙しだまし生きていたものの、部長に叱責されることで今の自分の立ち位置に愕然とする。未来への希望を空の広さに喩えるわかりやすさとか部長の立場になれば使えない社員に思えてしまう芽衣子というキャラクターは本人も自覚しているように平凡だ。彼女がいろいろと理屈付けして必死に今を肯定しようとしているけれど、そんなもんに何の価値もない。で、彼女がそんな現実を「現実って厳しいね」だなんてありきたりな世間に行き着かずに模索する姿が、結構いとおしかったりするんだよな。
 そんな芽衣子の子供じみたお悩みに対し、種田は彼なりに彼女を守って見せようとする。フリーターだけどバンド活動にさして熱心な様子もなく、どこか本気になっていない。本気に何かやっている人への嫌悪が、そのまんま本気になれない自分になって返ってきていることに彼はまだ気付いていない。芽衣子に焚きつけられるようにして仲間のビリーと加藤とともにバンドに本気に取り組むことで、彼はやがてこの世間で生きるってことに本気になっていく。本気にならざるを得ない状況に追い込まれる。バンド活動は実を結ばず、彼が現場で見たものは、学生時代に夢中になったバンドの元メンバー冴木だった。某アイドルのバックバンドという「最高のチャンス」は芽衣子に一蹴されるが、冴木の説明を聞く種田の表情は芽衣子の直情と対照的である。おそらく彼はこの申し出を受け入れるつもりだったのだろう。それが彼なりの本気で自由な生き方なのかもしれない。夜の海岸の花火で「どんな些細なチャンスも決して無駄にできない」と思った芽衣子だが、いざその場に直面したらこの反応、種田の複雑な感情は言葉にならない。
 あるいは種田は丁重にお断りしていただろうか。彼はトイレで冴木の本音に直面して怯んでしまう。ポケットから取り出した寒い財布と花火の欠片。不安いっぱいな現実と奇跡的な幸せ、彼はどっちを捨てただろうか? 彼の思いを乗せたパラシュート、芽衣子も感じた幸福感は、時間と場所を変えてみれば、芽衣子自身がただのおもちゃと言う程度のものに過ぎないのか。種田の明るさに無理していると感じた芽衣子の直感は間違っていない。だけど、種田の思いを想像した読者は、ここで芽衣子と感情のずれを自覚することになる。
 種田の死。彼が何を考え何をしようとしていたのかは読者しか知らないことだ。読者でさえ知らない部分もあるだろう。種田が現実を目の当たりにして下した決断は、種田自身を苛むことになってしまった、事故直前の咆哮は何だろう。同じ空に芽衣子は冒頭で苦しさを感じたが、彼は「幸せだ」と大きな希望を見ていただろうか、「ホントに?」と、下してもなお苦しんでいる姿がほの見える、というか明らかに苦しんでいる。青臭いなーと言えない何かがある。
 2巻で物語は大きくうねる。1巻で強調されていた現実問題が、種田の死とともに霧散したかのような印象だ。だからといって消えたわけじゃない、それらは形を変えて、一人の人間を失ったことで別の問題として浮上してくる。つまり、お金の問題である。種田を単純だと言えるとすれば、それは理想と現実をお金に還元した点だろう。どんどん減っていく貯金、職無し文無しという立場の危うさをひしひしと感じるにつけ、彼は冴木の言葉を契機に(実際はそれ以前から感じてはいたけど、お金に妥協した将来の自分を冴木に重ねた彼は、現実にしろ理想にしろお金が必要だと思ったのかもしれん)、生活するに必要なお金の重さを実感する。彼は妥協点を探す。種田の父の言葉、残された日記、芽衣子への最後の電話からそれが想像できる。でもやっぱり、彼は納得できない。事故の前に彼は何を叫んだのか。
 私は芽衣子が種田のギターを構える場面に不覚にも、いや不覚とかなんかは関係ないけど、ものすごく感動した。種田の父の言葉から、彼女は種田の残したものを継いでいこうと茫漠と思うわけだが、きっかけはどうあれ、何かが動き始める気配が迫ってきて、同時に興奮した。物語が半分過ぎたところで漸く作品に夢中になれた気がした。長い助走だったけど、でも振り返れば冒頭から作品は全力疾走していたわけで、なんだか自分が情けない。1巻の芽衣子の言葉にどこも共感できなかったっていうのもあるけど、人の死と向き合うっていうのは、実は貯金通帳の残高を見詰めることよりも切実で、当たり前のことだけど悲しいんだよな。彼女はお金の無い寂しさよりも種田が居ない寂しさに打ちひしがれて、なかなか立ち直れなくて、それでもお金はやっぱり必要でバイトを始めてはみたけれど、そこには若い同僚がいて、彼のキラキラした目には自分さえも落ち着いて見えることになんだかショックで、どんどん時間だけが過ぎていく。
 芽衣子のその後の物語は、種田の思いを探る道程を描くことになる。「ソラニン」という歌の捉え方がその象徴として中心に据えられる。恋人との別れの曲から過去の自分との訣別の曲へと考えが変化し、歌いたいと思って行動しているうちに・実際に歌っていくうちに、彼女は読者しか知らないはずの種田の叫びが何なのかを理解し始めていく。バンド活動を再開することでビリーや加藤も種田の存在を繋いでいく。また大橋という同僚の登場で、まだ世間の毒素を吸収していない若さに触れて、種田と出会った頃のことを思い出し(この辺の回想場面の挿入は自然だよな)、種田について知った気になってた読者・いやまあ私のことなんだけど、1巻13頁のあの頃っていう回想がここに繋がるのかとストーリーにも感動する自分って単純だけど、まあ面白いなーと思う瞬間っていうのかな、そういうのが実感できたのが嬉しくて、一層芽衣子がいとおしくなっていく。ちゃんと成長しているよな。代償は大きすぎたけど。
 さてしかし劇中で、種田や芽衣子の葛藤をとうに通り過ぎていながら主人公を暖かく見守るキャラクターがいたことを忘れてはならない、ビリーだ。過去の呪縛(あだ名の由来)にとらわれながらも、薬屋の息子・跡継ぎという現実と常に対峙しつつバンドを続けることは、種田が働きながらバンドを続ける決意をした事が甘ちゃんに見えるくらいだろう。実際に彼は種田の対象として設定されているようだ。コマの隅に時々描かれる彼が見る夢のおかしさとか、罰ゲームに興ずる姿の真剣さとか、どこかしら人生への余裕が見える。ポポポポポポポ。
 種田の唯一のライブも芽衣子の渾身のライブも、見ている客の描写は結構冷めてて、演奏場面の熱気とは裏腹な無感動さも、他人は自分に無関心なことを知っていればさして気にもならず、全身全霊を込めてみんなと歌いきる・演奏するってことが出来ればそれで満足・十分幸せなのかもしれない。彼女が見つけた答えはおそろしく平凡だろう。だが平凡を拒んだ上での結論ではなく、それさえも受け入れた上でなお平凡さを選択し、バンドの活動を続けることで希望を養い地味に生きていくっていうのは、勇気ある選択に違いない。OL時代の自分とすれ違った芽衣子が、嫌悪したい自分に寛容になり、みんな必死に生きているんだと悟る。自分も含めてみんなは知らず知らず毒素を溜め込んでいく。だからといってそれを削ぎ落としてしまえば簡単に食べられてしまう。一人ひとりが自分なりの防衛網を張って、それなりに生きている。すなわち劇中の至る所で描かれる変なポーズをする人々は、青臭さを自覚している作者なりの照れ隠しであり、ちょっとした自意識の防衛網・ソラニンなのかもしれない。

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