「その娘、武蔵」1巻 「桐島」たちのその後

講談社 ITANコミックス

田中相




 高校バレーを描いた青春漫画と言えば、いくつか思い出されるわけだが、田中相「その娘、武蔵」は、恵まれた才能と体躯を持ちながら、バレーをする意味を失ってしまった武蔵という名の女子高生が、バレーを通してその意味を取り戻していく様を、丁寧な心理描写と演出で紡ぎだしていく作品である。
 中学生大会で優勝し次のステップアップを期待される最中に引退を唐突に発表したことで、余計に注目を浴びながらも、自分の進むべき道を探そうとバレー部のない高校に進学を決意する。進学した先では、顧問の体罰問題で廃部しながら、わずかに残った元部員たちが同好会という形でバレーに取り組んでいた。体罰問題からの復活を目指す元部員たちと、バレーから遠ざかろうとしていた武蔵の戦いが、1巻の物語である。
 ところが、実に不器用なマンガである。肝心のバレーを含むアクション場面は、お世辞にも上手いとは言いづらい。スピードを出そうと流線を多用したり、武蔵の迫力あるスパイクを太く荒々しい線で描写したり、人物の動きを線で表現しようとするあまりに、肝心なキャラクターの輪郭の印象が薄まってしまっている。
 もちろん、このスピードとパワーの表現は、マンガ表現において常に葛藤されてきた問題でもある。スピードを求めて流線に工夫を凝らしていけば、パワーが失われる。パワーを強調しようと筋肉などの輪郭をくっきりと描けば、スピード感が失われる。こうした葛藤の一回答として、鳥山明「ドラゴンボール」のスピードとパワーを兼ね備えた表現・キャラクターを「気」で包む表現は画期的だったわけだけれども、スピードの流線は「気」で描きこみ、パワーは「気」の中の筋肉をリアルに描きこむことで果たされたそれを、現実のスポーツ表現に落とし込むのは簡単ではないのだろう。
 では、そうした不器用な運動表現を「その娘、武蔵」はどのように描いていくだろうか?
 今のところ、まだ本作は手探りの真っ只中という印象だ。そもそも第1話の武蔵の優勝を決めたスパイクの場面の迫力のなさは、次に見開きで仁王立ちする武蔵の迫力に遠く及ばない。ああ、無理して頑張ってんなぁという野暮な突っ込みをしたくなる。他の場面も含めて、作者はコート上で実際にバレーを見たこと(プレイしたこと)がないことがあとがきを読まずとも推し量れる。鑑賞者視線であり、テレビ観戦視線から描かれている。おそらく最初の「ふぁっ」のコマも含めて、バレー雑誌の類から模写したものもあるだろう。
 それでも、この作品の運動表現に可能性を感じるのは、作者の客観的な視線にあるからである。鑑賞者視線の徹底だ。
 武蔵の内面描写を波に飲まれる暗喩で度々描くのを皮切りに、キャラクターの心理が数多く描かれる。プレイ中の一瞬一瞬でさえも、それは滞ることはなく、スパイクのインパクトの瞬間から、ボールの行方に反応して身体を突っ込んでレシーブするという一連の動きにも、スピード感を殺いででも、彼女たちが何を考えているのかを細かく描写する。
 1巻のハイライトとなる武蔵と古賀律とのスパイク対決で見せられた、武蔵快心の一撃を律が6コマにわたってレシーブする場面は、鑑賞者視線が極まった瞬間でもある。
 周囲のざわめきを詳らかに描く作品である。部活勧誘中の朝、武蔵が登校した場面では、噂の武蔵とバレー部が衝突するぞと、野次馬の声がざわざわとコマの隙間を具体的な彼らの言葉が埋める。武蔵と律が初めて顔を合わる、いわば運命の瞬間でありながら、雑音が容赦なく描きこまれた。二人の今の境遇が客観的な視線によって浮き彫りになる。
 スパイク対決でも、体育館に物見遊山で集まるギャラリーたちは時に不愉快な声を上げて元部員を苛立たせる。見開きで描かれた二人が対峙する場面の背景では、手を挙げたり振ったりして誰かを呼ぶキャラクターが描かれてもいる。実際にこうした無責任な気分に支配された空気は、武蔵にとって、時に波に飲まれるような感覚を引き起こしたのかもしれないが、その解釈はともかく、ギャラリーの声は、対決の行方が見えず長引いていくことで、次第に対決そのものに集中していくのである。
 プレイに対する感想が中心になり冷やかしの声が消え、緊迫感に包まれていく(74頁中段のギャラリーの描写・囃し立てるギャラリー→余裕のある顔で対決に集中していく→余裕を失い顔に汗が浮かぶ、という3コマがもっとも象徴的だ)。
 そして、そんな声が後退していくのと入れ替わって、武蔵と律の心理が前景化していく。打っても打っても弾かれるスパイクに武蔵の焦慮が顔に大きな汗粒となって刻まれる。
 律のレシーブの6コマは、ギャラリーの緊張感が頂点に達した瞬間でもあった。読者は、誰でもないギャラリーの一人として、この場面で息を呑むのである。
 さてしかし、武蔵が部活をやる意味あるのかとバレーから離れようとするキャラクター性は、どうしたって「桐島」の菊池を思い出してしまう。「桐島」とは、2012年公開の吉田大八監督の大傑作、映画「桐島、部活やめるってよ」である。
 菊池とは、野球部員で期待されながら、野球に打ち込むことに意味があるんだろうかと、練習をサボり放課後は帰宅部然と友達と適当に過ごしているキャラクターである。プロ選手を目指すわけでもないのに、野球を続けることに何か意味があるんだろうか? 映画のクライマックスで彼は、映画部の前田に、将来は映画監督ですか?女優と結婚ですか?とからかい気味に・だが真剣に訪ねた。前田は、否定も肯定もせず言いよどみながら応える。前田は将来、監督になれないことを理解していた。ただ、好きだから映画を撮り映画を観ている、意味なんてない。結果すらどうでもいいのだ。
 「その娘、武蔵」の武蔵は、バレーを続ける意味を探すことを1巻末で宣言した。物語は、「桐島」たちのその後を描くのか、それとも、田中相の独自の世界を描くのか。いずれにせよ、読者もまた無責任に囃し立てず、真剣に物語の行方を鑑賞したい。息を呑む瞬間を、また味わいたいのだ。
(2015.2.9)

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