「素晴らしい世界」1巻

小学館 サンデーGXコミックス

浅野いにお



 恥ずかしいけど言わずにいられない、言わなきゃ気がすまないって言葉がある。なんで漫画家になってしまったのかわからないが、浅野いにおは漫画家になってしまったために、それを漫画で描いてしまった。感性があればオシャレにまとめてしまうんだろうが、いや、浅野氏に感性がないという意味ではなく(きっとあるんだろうが、よしもとよしともだけでも読んでれば、皆が皆めまいめいた既視感を訴えよう)、深刻になりやすい主題を、勘違いした輩なら詩にでもしてメッセージソングとして駅前で歌いそうなものを、必死に軽く薄く・といって軽薄でない切り口で、ちょっと人生について真面目に考えない? 本当にちょっとの時間でいいからさ、といった態度で照れ隠ししながら懸命に描かれた漫画が「素晴らしい世界」という連作である。
 全9編の短編。1巻からもうすでに息切れの感がある(というのも、「サンデー・ピープル」の回で漫画家が登場してしまうから。作者にとって身近すぎる登場人物を主人公にした話は描きやすい分、読者にとって物語は生々しくて見える。余計な詮索を許してしまう。つまり、巻頭の「1980年生まれ」という作者から察するに、35歳の売れない漫画家という設定はひどく自虐的でありながら今の作者本人の気持ち、つまり同級生はみんな就職したのに自分は職業漫画家としてやっていくことへの漠然とした不安がうかがえるし、同時に照れながら描いたことも推測できる。10頁くらいの話なのであれこれ考える間もなくさらりと読んでしまうが、立ち止まって読むと、不要な疑いを招くのである)。「脱兎さん」「坂の多い街」「森のクマさん」の3編でこの短編集は事足りるといってもいいほどに、他の話が焼き増しにしか見えない。もちろん、設定を替えて工夫して入るが、結局のところ、学生時代に多くの人が感じたであろう将来への漠然とした不安にじたばたする若者たちの姿をちょいと滑稽に描いて見せたってだけの話である。
 それでも私がこの作品が好きである。なぜかって、よしもとよしともが全然漫画描かないから。もうがんばってほしい、浅野氏には。特に、やっぱり「サンデー・ピープル」の掌編がとてもかわいい。生々しいっていうのはつまりリアリティがあるわけなんだが、他の話は軽い描写が多いだけに、描きたいけど新人ゆえの遠慮か技量不足か何度も言う羞恥か知らないけど、物語の表現の仕方に突込みが足りないのである。好例が112頁、さてどうだろうか、なれた漫画家なら、それをそのまんま描いてそこに独白をかぶせるかもしれない。2コマ目が今の浅野氏にとっての精一杯の性描写なのかもしれん。また136頁なんてわかりやすーい照れ隠しの典型である、「夢・希望」の文化祭の垂れ幕とホズミ少年の台詞に次のコマの「さむ。」、「白い星、黒い星」という話の最後の締めくくり方としては、非常にいかがなものかと詰問したいところだが、「あっそう」とか「ふーん? それで?」あるいはくしゃみして流すことが出来ない浅野氏の真面目さがかわいいのである。こういう文章は非常に嫌味っぽいしバカにした感じを与えてしまうが、作者の隠しても隠し切りない真面目さってのが、かえって新鮮なのである。(よしもと氏の場合は、事実なのか虚構なのかわからない境界線上で青春を乾く描いてただけに生々しさってのは感じなかった(読んだ当時の自分が若かった、というのもあるかもしれない)し、そもそも真面目さなんて感じようもないほど洗練されていた(過去形))。
 ただし、ひとつ欠点をはっきしと指摘しておきたい、はっきしと。それは画面から全然音の震えが伝わってこないってことだ。静か過ぎてパラパラ読めてしまう、もったいなさ過ぎる。冒頭5頁で電車が「ゴゴゴゴ」と通り過ぎて6頁で主人公の部屋に場面が移ったところで、電車の音は「ゴゴゴ」のままで室内の喧騒具合も振動そのものも描かれない。8頁3コマ目・11頁1コマ目では壁が蹴られたときの振動を描いているのだが、私には電車の音と水槽のクーラーの音の違いがまるでわからない。隣の受験生を一見危ない奴として描写することによって、話の筋は伝わっているけれども。全体的に擬音に生気は感じられない、ここだけ妙に乾いているのがもどかしい。私だけの感覚だろうか。
 さてしかし、結果的に擬音のない静寂さの描写が印象深く仕上がっているから漫画の表現ってものは侮れない。90頁であり174頁であり199頁であり。ただ、パソコンに頼りすぎ。ガリガリ描いて。


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