「すこしときどき」

講談社 講談社BOX「すみれの花咲く頃」収録

松本剛



 先日、60年近く続いた映画館が閉館した。地元で「ドラえもんの映画がやっているとこ」と言えば誰もが思い浮かべる映画館である。たびたび通っていた私は、チケット売り場のおばちゃんに顔を覚えられており、1800円のところを1500円とか1300円とかにまけてもらうこともしばしば、親しみのある映画館だった。最後に観たのも、やはりドラえもんだった。親子連れの会話が漏れ聞こえる、おそらく小さい頃にここでドラえもんを観たに違いない、親となって再び子供を連れてやってきたのだろう。寂しいという言葉に、映画の内容とは別のところで感慨に耽る自分がいた。
 「すこしときどき」は復刊版「すみれの花咲く頃」に収録されている短編である。思春期の中学生・性への関心をポルノ映画に求める小林と、男勝りの中桐、そしてもうすぐ転校するという横山の3人を軸にした物語である。
 転校する横山への寄せ書き、その内容のつまらなさ、誰もがどうでもいい文句を並べる中にあって、中桐は「きれいな花をいつもありがとう」と、彼女がいつもやっていた・級友の誰も気付けない花瓶の花を持ってきていたことを書いた。中桐にとって、横山の女の子らしさは特別だったのである。冒頭の登校場面で、ポルノ映画のポスターに興奮する小林の男の子らしさと、花束を持つ横山の女の子らしさは、中桐にとって、一種の憧れでもあった。そのことが明らかになるのは物語の終盤においてだけど、だからこそ、再読すると中桐の感情がセリフの端々からほの見えていることに気付き、初読の感動が強化される。
 また、小林が左手で字を書くことを中桐にさんざ注意されたことを覚えている、というところで赤面してしまう中桐がぷいと背を向けてしまう場面。彼女にとっての思い出が小林にとっても思い出になって「忘れない」という言葉は、まさに中桐にとっての寄せ書きの言葉なのかもしれない。中盤で歴史の授業が一場面ある。先生が消すぞーと言って黒板消しを振り上げる。生徒はわーっと声を上げた。授業によくある光景も、寄せ書きが脳裡にある読者にとっては何か意味のある描写になる。書き連ねられた歴史的事件や人名は黒板消しに吸い取られ、掃除の時間に叩かれてきれいになり、舞い散ったチョークの粉は空の中に消えていく。記憶はこうして人々の脳裡から消えていくかのような印象をこの場面から感じる。この場面の前で「俺達 どーせ すぐ忘れるじゃん」と中桐に語る小林が、終盤、ひょっとした忘れないのではないかという思いで「やっぱり すぐ 消えてくかな」と漏らすと、授業の場面が一層意味を濃くしていく。
 全編を通して中桐の忘れたくない気持ちが充満しているけれども、そこに小林というさえない感じのムラムラ男の子と、性に関して極度に恥ずかしがる横山を加えることで、友達を忘れないという具体的な命題が浮上し、抽象的な物語の骨組みとなる。3人の気持ちは察せられる程度に抑えられて描かれているけれども、確固とした骨組みのおかげで、それがわからなくとも友達のつながりという点で読み進められる。でもここでは更に突っ込んで作品について語ろう。
 横山の転校の挨拶と白々しい級友との別れが済み、ポルノ映画をなんとかして観たいと映画館前をうろうろしていた小林は、近々閉館することで半分にやけになったらしい館長に観に来いと言われる。半分真に受けた小林は、自室で悩む。このくだらない悩みの中に、中桐を女性視する視線が介入する。男の子のように振舞う彼女が寄せ書きに書いたきれいな字。中桐が横山の持つ花を「きれい」「女の子らしい」と言ったのを思い出せば、中桐にも女の子らしい面があり、それを誰よりも理解していた小林が彼女に心惹かれていくのも納得である。そして引越しの準備をしていた横山の描写に場面が移ると、彼女の父が映画館の館長である事実が明るみになる。彼女が男子生徒にエロ雑誌を無理やり見せられて赤面したのも、性への恥ずかしさではなく、自分の父の仕事への恥ずかしさが多分にあったのだろうと思われ、だから友達もいない、寄せ書きで誰もまともなことを書かない理由がわかる。そんな中で横山をしっかりと見ていた中桐の言葉だけが際立つのは当然だ。中桐は知っていたのだ、横山が恥ずかしがる本当の理由を。
 横山が部屋の片付けをする最後のコマでカーテンを開ける。窓に映った自分の顔、次頁で窓を開けるのは、しかし小林である。彼は家の庭の花壇に咲く花を見る。横山の意識を残すことで、いつも花を持って来ていた横山の姿が、彼が見ている物を通して読者に思い出される。けど、彼の結論は「どーせ忘れる」だった。
 映画館が閉館する日、映画のポスターははがされ、やはり忘れられるんだ、という思いもつかの間、花を持って登校する中桐が登場する。女の子らしい行為に自分自身恥ずかしい彼女だったが、忘れたくないという言葉は小林の心の奥に引っかかっていたものを刺激した。昨夜の妄想が現実の彼女を目の当たりにし、しかも「忘れる」「忘れない」という共鳴により、読者にもはっきりと小林の中桐への感情が描かれる。照れ隠しに反発するのも男の子らしい描写だ。
 その日、女子生徒は集められて性教育を受けていた。自習の中でふざけまわる男子生徒の群れの中で小林はそっと教室を抜け出す。性教育を受けていた中桐もどこか上の空である。彼女は授業に戻らず、そのまま保健室に駆け込んでいた。その二人が偶然顔をあわせる。「ポルノ映画を見に行く」という小林について行く中桐。
「俺はともかくお前はダメなんだぜ」「なんで」「女は――」「女じゃないもん」「?」
 映画館に着いたものの中に入る勇気がない。もぞもぞとしているところに、これから出発するという横山が現れた。「見送りに来た」という中桐に心底嬉しそうな表情を見せる横山は、すぐに忘れられると思っていたと語ると、小林に「そんなわけないじゃん」と言われる。ちょっと喜ぶ中桐。父の計らいにより、3人はポルノ映画を観ることになった、ていうか性教育ビデオ?
 映画を観終わった3人は、それぞれ確認しあうように「面白かったよな」「面白かったよね」と言い合う。映画の内容ではなく、友達で映画を観たということが忘れたくないのだろう。横山を見送った後、映画館の前に戻ってきた時、中桐を異性として過剰に意識してしまった小林だったが、彼女がぽつりと呟いた一言は、忘れたくないという記憶へのこだわりの他に、性への意識が小林より中桐のほうが強かったというどんでん返しによって、この作品にはもうひとつの命題があったことが明るみになる。ラストシーンで女性らしい容貌になった彼女が映画館の跡地に建てられた健康スポーツセンターを前にして語り始める物語が、実は本当の物語の始まりなのだ(なんちて)。
 私の地元で昨年にシネコンが出来てから1年も経たずに2つの映画館がつぶれた。施設の老朽化という問題があるにせよ、映画館で映画を観る・特に感動した時の記憶には、それを見た場所の記憶もついて離れないだけに、感動の一部が消されてしまうような切なさがある。けれども、この作品に触れることで、建物が無くなっても場所まで・記憶まで失うわけではないことを思い起こされた。そしてまた「すこしときどき」も、読後の感動を含めて読んだ時の状況や場所と共になって忘れられない、心の名作になった。
(2007.4.16)
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