「少女漫画」

集英社 クイーンズコミックス

松田奈緒子



 名作少女漫画をモチーフにした松田奈緒子の連作「少女漫画」は、作者自身思い入れのある作品にまつわる5編と少女漫画家自身に向けた作者の主張が込められていると思われる1編で構成されている。「ベルサイユのばら」「ガラスの仮面」「パタリロ!」「あさきゆめみし」「おしゃべり階段」それぞれにちなんだ物語について当該作品を未読の私には、それほどの感慨を得ることが出来なかったけれども、それぞれ独立した物語として面白く読むことが出来た。一部男性には、主人公たちの女性性への強い訴えに辟易してしまうやもしれないが、「少女漫画」というタイトルだからこそ女性の語り手による女性の物語なわけで、「予定調和」への道筋を迷いなく読み進めることが出来た。たとえば「ベルばら」の派遣社員として勤める妙齢の女性がオスカルよろしく奮起して会社に革命を起こそうとする話、パタリロそっくりの赤ん坊を抱えた若き母がわが子に完璧を求めるあまりに行き過ぎた躾を施すある母親を間近に目撃する話、というような現代社会を見据えた上での挿話があるかと思えば、乙女チックに従順な「ありがちな恋」の結末に走っていく女性たちの姿もあるけれど、それらをひっくるめた上で訪れる最終話「少女漫画家たち」は、極めて刺激的な物語となっている。
 連作を通した狂言回し的存在(あるいは作者の分身)として登場する少女漫画家・俵あんはデビューして5年経っても単行本も出ず、日々の暮らしをバイトなどしてどうにか糊塗する有様だった。彼女が真に語り部となって展開される最終話は、何故自分は売れないのか、売れる少女漫画との違いは何かについてを、いくつかの類型化された登場人物と比較することで明らかにし、「予定調和」「ありがちな恋」こそが、実は少女漫画の本質の、少なくとも一面であることを作者の分身だろう俵あんではなく、他の架空の少女漫画家の言葉を借りて堂々と宣する感動作に仕上がっている。
 担当編集者が新人の笹路に変わって動揺する俵だが、笹路が単行本上梓に向けて動いていることを告げると小躍りして「人生初の単行本」に喜ぶ。これで赤貧生活から抜け出せるかもと妄想も膨らんでいくところで、何故自分は今の今までこんな状態だったのかと省みていくことになる。たまにアシスタントとして手伝うベテラン漫画家・内山田に助っ人を頼まれた俵は、「おめでとう」と喜ばれるものの、内山田の描く6年目の長期連載となる「悪く言えば予定調和のハッピーエンド」な作品の背景を描きながら、一言二言気になる発言をしてしまう。内山田と自分の違いは何か。美大出でデッサン力があることは認められている彼女にとって、リアルな景色は描けるが、少女漫画のリアルは描けないという現実。そもそも少女漫画のリアルとは何か、という問い掛けに対するひとつの返答が、あるマンガブログ(第1話の主人公が営んでいるブログという設定)の批評という形で読者の前に提示される。
「誇り咲く花々 美しい王子様との恋
 これらのお伽話を嘲笑する人々がいる。
 彼らは一生気付かないのであろうか?
 「私をつかまえてごらんなさい」というセリフの意味は
 世界を獲得した少女の 勝利宣言だという事を。」
 麗束薔子(うららつかそうこ)という大人気少女漫画家の作品評の一部である。俵は王道中の王道である彼女の作品を面白いと思えない。前の編集者に、これが面白い漫画だと言われたものの納得できない。だが、ブログの批評を読んで俵の心中で何かが変わった……俵は、新人漫画家のとある集まりで「少女漫画はレベルが低い」という男性漫画家の一言に激怒した――
 さて、物語の中盤で描かれた上記のナレーションが入るコマ(単行本182頁)は一頁丸まる使われている。冒頭の白紙の原稿と対になっているわけだが、何もないところから生まれた絵・お花畑の中をドレスを着た少女が笑顔で駆けている下絵にペン入れをしている場面である。もちろん俵の作風とはほど遠い麗束本人のものである。謎の漫画家の彼女の登場はわずかに数コマ、表情が具体的に描かれたものに限れば1コマに過ぎない。しかし、「少女漫画」という作品全体を覆っている世界観が、実は彼女の作風であることを読者は最終話で思い知らされることになる。思いがけない結末によって。
 今年(2008年)公開の映画「潜水服は蝶の夢を見る(仏・米 ジュリアン・シュナーベル監督作品)」は脳梗塞の後遺症による全身麻痺で左目以外が不自由になってしまった主人公の物語である。思考は正常でありながら何も出来ない状態に絶望するものの、まばたきという信号を使った意思伝達法を獲得し、なによりも「想像力と記憶」によって主人公は飽きることのない想像の世界を旅することになる。
 「少女漫画」の最終話を読み終えて、この映画のことをすぐに思い出した。雑誌社の謝恩会に出席した俵は、当の麗束とすれ違う。ほんの一瞬だが、一言言葉を交わしもする。無神経なキャラクターとして描かれる彼女のその一言は、ラストで一層その無神経さ(と悲哀)が強調される結果となってしまうわけだが、前の5編に登場した典型的な不愉快なキャラクターたちに最終話で主人公本人が含まれることになり、現実感が色濃い作劇にもなったのである。作り物めいた作品としての5編を面白くないと思う読者が、ここでは主人公となって周囲から糾弾される構図が形成されているのだ。彼女の姿は先の新人漫画家の姿に重なり、自分が抱いていた少女漫画への蔑視が、読者の事を無視した独りよがりであることを悟らせる。自分が本当に描きたいものとは何か? 俵の思索は自分に向かう、かつていろんな夢をもらって励まされた少女漫画に、自分は何が出来るのだろうか。
 たった一人の想像力が多くの読者を救い希望を与える。漫画家は想像力とペンによって、多くの読者を夢の世界にいざなってくれる魔女なのだ。
(2008.2.21)

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