「少女終末旅行」6巻

希望の果て

新潮社 バンチコミックス

つくみず



「少女終末旅行」を読むときに、いつも頭に思い浮かべるのは宮崎駿「風の谷のナウシカ」である。チトとユーリがケッテンクラートで旅する廃墟と化した巨大都市は、まるで腐海のように見え、何かしら意味があって存在しているのではないかと、どこか楽観しながら読んでいた。鉄を食べるヌコの登場は腐海を統べる王蟲のようで、より一層その感覚を尖らせる。腐海は劇中で、汚された大地を浄化するために毒を排出しており、腐海の奥の奥のそのまた奥には、浄化された大地があると示唆されていた。だからこそ「少女終末旅行」にも、二人の旅の果てには、廃墟は廃墟でしかないんだけど、なんとなく楽園が広がっているのではないかと、漠然と考えていた。
 けれども、そんな楽観的な気分は、最終巻となった6巻の冒頭から少しずつ不安に浸食されていった。何もかも覆い尽くす雪は、一見、都市の暗部を埋め尽くし、どこまでも白い草原が続くような錯覚を引き起こしていた。慎重なチトと、お気楽なユーリの対照的なキャラクター、二人だけの登場人物にもかかわらず物語に起伏をもたらし、飽きることのないシチュエーションを構築し続けていただけに、消費されていく食料や、どこか調子の悪いケッテンクラートに、寒さに気分も落ち込んでいくチトの気分が乗り移ったかのように、読者の私は、かえって、その白さが次第に恐怖の対象へと変貌していた。
 かまくらを作って寒さから逃れる二人が、このまま死んでしまうのではないか。そんなことを意識した瞬間である。もちろん最終巻とはいえページはまだ浅いので物語はまだ続くことはわかっているが、そのことがページを捲る動きを鈍らせたのは事実である。
 思い起こせばこの物語の主題は、長らく記録にあると思っていた。読み終えた今となってもその考えは変わらないが、カナザワから譲り受けたカメラや、チトが綴る日記や収集する書物など、どこかに、失われた文明に対する回顧録のような雰囲気があった。後に二人の旅のきっかけから、人類がどうしようもない戦争に突入しており、彼女たちが幼いころにはまだ人がそれなりに暮らしていたことが描かれていた。カメラのメモリに残されていた幾多の写真からも、かつては人々がそれなりに暮らしていたことを物語っていた。数年から十数年の間に、人の気配がほとんどない都市を生み、生存者の有無さえ定かではない状況下は、それ自体絶望的なのかもしれないが、二人のキャラクター性に引っ張られ、そんな気分を感じなかった。
 魚を捕ったり風呂に浸かったり、行く先々で出会う都市の機能に驚き興奮し、楽しんだ。終末の日常と謳われながらも、実際には非日常を日常のようにしていただけなのだが、もっともそれに貢献していたのは、キャラクター性以上に、つくみずの筆致によるところが大きい。ほどよく廃墟を廃墟に見せず、暗闇を暗闇と感じさせない、細い線をひき重ねて描かれる建造物は脆くも儚くも見え、作りかけの巨大都市のあちこちに転がっている柱や歯車にも崩れそうな柔さがあった。それらが崩れ落ちる時、大きなエネルギーの塊として他の建物を巻き込みながらズズーンと脆い描線ともどもにぐちゃっと形を大きく損ねると、当たり前だよなぁと思うと同時にそれら巨大な建造物のどこにそんな重力が働いていたのか、一瞬、訝しんでしまうほどの軽やかさがあった。
 さてしかし、雪は異なった。雪はただ、それらしく降っている様子を建造物の間や空白に描き、広い画面を白く覆いさえすればよい。筆致によって醸し出されていた軽さらは、あっさりとかき消され(現実には描かないことで、白さを「描く」わけだし、真っ暗闇もまた同様だ)、ただ雪そのものが茫漠と都市に圧し掛かるのである。
 背景が真っ白や真っ黒になることで、二人のキャラクターだけが浮き彫りになる。最上部を目指していた旅は、いよいよ目的地を明らかにしようとしていた……わけではない。上にあるのだから、見上げる二人からは見えるわけがない。何があるのかわからないという不安は、清浄の地が待っているという幻想を、やはり溶かしていく。それでも溶けない雪を潜り抜け、再び建物の間を縫うように進むと、二人は巨大な図書館にたどり着いた。
 前述のとおり、物語には「記録」が大きな鍵として立ち上がっていた。その集大成とも言える、果てまで続く団地のようなその施設は、人類が積み上げた知識と知恵の結晶だった。誰も利用しなくなった無人の空間に、ただ本だけが、黙々と律している。誰かに読まれて初めて記録としての意味を成すのに、もう誰もいない。チトでさせ読めない文字が・読めない本があった。虚無が、一気に押し寄せてくる。
 その後の展開は、それを裏付けるように、何かを捨てなければ前進できない事態を次々と描いた。履帯が切れ、いよいよ動かなくなったケッテンクラートは修理の甲斐なく解体され湯舟となった。持てるだけの持ち物を背負い歩き始めると、食料や燃料はもちろんのこと、銃、本など荷を軽くするためにも捨てていく。そして、これまで書き溜めていた日記すら、燃料として燃やされていく。
 ユーリは、チトは記憶力がいいから大丈夫と言う。だが、本当の喪失感を抱いているのは、他ならぬ読者ではなかろうか。これまでの出来事が、一頁一頁ちぎられては燃やされる。チトは、過去を振り返ることも思い出に浸ることもしない。その前向きな姿勢が、余計に過去を思い起こさせた。カメラを呉れた地図作りを生きがいとするカナザワとの出会い、遠くへ遠くへ行くことに憧れ飛行機づくりに勤しむイシイ、最上部への道しるべを与えてくれた人工知能、銃弾を飲み込み成長しラジオを通して会話したヌコやその仲間たちの歌……

――チトが日記を書いたり、ユーリがカメラで写真を撮ったりしていますが、二人が世界を記録するような役割を担ったりしているのでしょうか。
つくみず そういうわけではないです。終末世界を旅しながら記録していくストーリーはありがちな話かもしれませんが、この作品では二人はそういった役割を担っているわけではありません。何の意味も持たないというスタンスでたぶん最後まで描いていくと思います。
2015年「どう生きるべきか 『少女終末旅行』つくみずは問い掛ける」インタビューより(http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1507/24/news016_2.html)

 つくみずは、日記を燃やすことでインタビュー通りに意味のないものとして描いたのかもしれない。だが、読者=私は、消されていくことで、かえってこれまでの物語の思い出に浸り、カメラが次々と映し出したように、二人の軌跡を回顧するのである。ああそうか、この物語を豊かにしていたのは、過去の記録を意味のないものにしようと行動するキャラクターを徹底して描く結果だったのだ。だからこそ、読者の心に残るのだ。
 最上部は、もう何かが落ちてくる心配がないし、わずかに稼働する戦争兵器や打ち上げ途上に果てたロケットもなく、平穏で平坦で、確かに清浄の地と呼べるかもしれないが、それは皮肉というものだろう。多くの記録を焼き捨て、今この瞬間に感じる情動さえも雪玉のように放擲し、チトとユーリは、白い空間の中で最後の食料を食べ、最後のコーヒーを飲み、日の出を拝み、眠りについた。
 記録を失っても、彼女たちを見守っていた読者まで記録を失うわけではない。だからこそ、私は奇跡を願わずにいられない。目が覚めたら、またいつものようにワンツースリーと踊ってくれるだろう。いつものように笑ってくれるだろう。ひょっとしたら、カナザワが、イシイが、あるいはヌコが、二人を救ってくれるのではないか。たとえ海岸に半ば埋まった人の骨を見ようとも、私は、そんな結末を望まずにいられない。だって、「生きるのは最高だった」って、言ってたじゃないか。

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