さくらももこ「ちびまる子ちゃん」1巻

ちびまる子ちゃんの思い出

集英社 りぼんマスコットコミックス



 テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」を見なくなって久しい。特にテレビを見る習慣がなくなってからは、放送時間に合わせてテレビ番組を見るという習慣そのものを失ってしまった。そのため、かつては毎週見ていた「ちびまる子ちゃん」も、いつのまにか見なくなっていた。平行して読んでいた漫画の「ちびまる子ちゃん」も読まなくなっていた。
 さくらももこの訃報に、多くの人々が追悼を送るだろう。私は、漫画家としてのさくらももひこしか知らない。エッセイも読んでないし、最近の執筆活動については全く知らない。それでも、その死はショッキングだった。何故なら、「ちびまる子ちゃん」は、私にとって、少女漫画を読むきっかけの一つだったからである。
 小中学生時代、妹が「りぼん」を愛読していた影響もあって、私は小学校の頃から少女漫画を少し読んでいた。それでもやっぱり「ケッ 少女漫画なんて……」と言った蔑視めいた思いがあり、どこかで少女漫画をバカにしていた時期があった。そうした中にあっても毎月楽しみに読んでいたのが岡田あーみん「お父さんは心配性」と、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」だったのである。少女漫画らしからぬ作品がとっつきやすかったのもあるが、なんやかんや思いながらも、他の少女漫画も面白く読んでいたのだから、今思えば感謝感激というものである。もっとも、「お父さんは心配性」が先に連載されていたこともあって、私には「ちびまる子ちゃん」は変なマンガだなぁという印象しかなかった。
 と言っても、いくつかの短編を雑誌で読む機会に恵まれていた。覚えているのは「あこがれの鼻血」だけだが、「ちびまる子ちゃん」連載までに発表された短編も、私は読んでいたことだろう。(なお、当時楽しみに読んでいたのは「ときめきトゥナイト」「ねこ・ねこ・ファンタジア」「エース!」など。今となっては作品名しか覚えておらず、内容は全然覚えていない)。
 さて、今回1巻を再読してみたが、あー、とにかくナレーションが多い!! あれ、こんな多かったっけ、というくらい多い。「ももこのほのぼの劇場」と銘打ってはいるが、全然ほのぼのしていない。基本的に、まる子が生来の怠け者っぷりが高じてバカやってお母さんに叱られたり、みんなの前で恥をかいたり。他のキャラクターもうっすらと登場してはいるが、名前も曖昧なまま、たまちゃんがまる子に呼ばれて、あの2話目に出てきた眼鏡っ子はたまちゃんだったのかとわかるのだが、主人公のまる子の言動に作者が一つ一つツッコミを入れる自虐ギャグとも言える展開は、後にアニメ化され、作風・特にセリフ回しがアニメを見据えたものとなり、アニメそのものとなっていくキャラクターたちの言動や特徴的なナレーションも、ここでは作者があの当時を振り返る、という体裁を採っている。そもそも「ももこのほのぼの劇場」自体が、作者の過去の面白話を紹介するというエッセイ漫画として描かれており、「ちびまる子ちゃん」もその一つだったのだろう。
 1巻で生き物係をする挿話・第9話で、花輪くんが登場する。アニメの印象が強いせいか、誰だこいって感じで、花輪くんと言って想像されるキャラクター性との共通項が少ない。この時の花輪くんは、はまじのような雰囲気があり、カッコつけているだけのバカな子どもとして描写されている。「生き物係のキザ野郎参上」という副題が、なによりもその証であろう。
 回想形式で当時の自分に突っ込みを入れる、という様式がこの挿話において崩れるのは、その後、エッセイ形式から離れてキャラクターごとに配役された架空の物語としての「ちびまる子ちゃん」世界の萌芽が、この時に芽生えたと言っても過言ではない。
 第8話がマラソン大会とひな祭りの思い出を描いた三月の挿話で、毎月、その時の時事ネタを入れつつ進級するかと思われたまる子が、「サザエさんをお手本にしました」という語りととも、小学三年生の物語をこれからずっと続けるという宣言が冒頭でなされるのだ。
 2巻でまた自分が主人公の物語が展開されるけれども、この作品の長期連載・長寿アニメの契機……それはさすがに言いすぎだが、この9話におけるキャラクターの描かれ方は、今思えばすべての始まりなのかもしれない。
 新学期、クラスの係決めでまる子は、他のみんなも考える楽な係になろうと思案した挙句、生き物を飼っていない今のクラスなら生き物係が楽だろうと、ジャンケンによる係決めという運だよりを捨て、立候補することで生き物係に任命される。連載が進んでいれば・アニメであれば、たまちゃんと同じ係になる、という方向に展開しそうだが、連載初期に主人公とその家族以外に、そのようなキャラクター設定はほとんどないため、まる子の後ろにたまちゃんが描かれているものの、一緒に立候補した花輪くんと係を請け負うことになる。
 はりきっている花輪くんは、さっそく生き物を飼いましょうと提案、休みの日にまる子は花輪くんに半ば強制的に生き物捕りに出掛けることになる。
 ここでのまる子は花輪くんに呆れつつ、子どもらしいバカな発想で花輪くんを追い詰めていく役どころである。キザ野郎と言われるだけあって、実際に言動がかっこつけてばかり。それがかえって子どものバカバカしさにつながり、まる子の幼稚な発想と連動し、花輪くんから内心ツッコミを入れられる(「オシャレのセンスがわからないのか このバカ女は」と言われる始末である)ものの、それとて子どもの発想に過ぎない。
 絵の描写力で物語を進めることは放棄されているのだが、二人のキャラクターがそれぞれの言動に文句を言ったり内心思ったり、時々挿入される冷静なナレーションが潤滑油となり、キャラクターを動かすことで物語が積み上げられていくと、マンガになっていくのである。マンガにとって重要なのはストーリーかキャラクターのよりどちらか、という問題があるけれども、キャラクターがとにかく大事であると思える一端である。
 ナレーションが減ってエッセイ漫画からストーリー漫画へと変化していく過程で、複数のキャラクターが呼応するようにお互いにバカなことをやっている可笑しさと、そこにツッコミを入れるナレーションが形成される、まさにアニメ「ちびまる子ちゃん」の原型を、ここに見るのである。

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