「ちぬちぬとふる」

エンターブレイン ビームコミックス「わたしたちの好きなもの」所収

安永知澄(作・上野顕太郎)



 上野顕太郎氏のくだらない原作をくだらないまんまに作画した安永知澄「ちぬちぬとふる」は、河合克夫・上野・しりあがり寿の3氏から原作を得た安永知澄の作品集「わたしたちの好きなもの」の一編である。
 「やさしいからだ」で描いた身体性への執着を考えれば、このギャグオチありきの原作は、まさに安永知澄という描き手にこそふさわしいようにすら思える。ギャグを描けそうにない作家にギャグを描かせた意外性でもなんでもない。実質的なデビュー作「白い本」(商業デビュー作は「くそがき」。どれも短編集「あのころ、白く溶けてく」に収載)で見せた4ページ連続見開きという大胆な演出・コマ割を、よりによってこの作品で再びやってしまうという度胸の良さは、安永にとってのギャグデビュー故なのか単なる偶然なのかはともかく、奇作とでも言える駄作一歩手前の・下手すれば安永のマンガ家としての評価を損ないかねない作品だと私は思う。
 科学雑誌の副編集長・万丈目は、神崎教授の招きで山奥の研究所を訪れる。所内には住居や店々が整えられ、その敷地の広さは小さな町を思わせた。万丈目は教授が言う最後の夕食に参加、その中で幾人ものこども達を目の当たりにする。教授が山奥にこもって10年にかけて行ってきたプロジェクトの全貌がいよいよ明かされた――
 雨の音をどう表現するか。「差別と向き合うマンガたち」の著書のひとり・吉村和真氏は、同著の中で音の表現・擬態語について五感環境学の小松正史と共同で研究した内容を紹介している。近代以前の日本では、犬の鳴き声が「びよ」「びょう」と表記されていることに着目し、また国によって犬の鳴き声に差があるように、私たちは音をどのようにして聞き、どう表しているのか、これを具体的に研究してみようという試みである。端緒となりうる可能性を持ったメディアが、すなわちマンガである。
 当たり前のことだけど、マンガは音を文字で表現する。マンガを小さい頃から読んでいる者にとって、この擬音の表記が、私たちが音を聞いた時の感覚に何かしら影響しているのではないかというわけだ。静かな室内を見渡した時に「シーン」という音を感じるのは、ひょっとしたらマンガの影響ではないのか? ショックを受けた時に「ガーン」となるのもしかり。つまり私たちは、音の表現を後天的に獲得しているのかもしれないわけだ。たとえば、あなたが今、目を閉じて聞こえてくる音に耳を澄ましたとしよう。パソコンのファンの音、テレビの音、外の喧騒……これらをマッピング(サウンドマップ)する、つまりどんな音であるかを視覚化すると、どんな結果になるだろうか。レポート(ネットでもPDFファイルで読めるぞ→http://www.nekomatsu.net/results/paper_pdf/komatsu_kiyou04_paper.pdf)の一部を引用しよう。
 「音喩表現についての事前予示がないにも関わらず,過半数(52%)の被験者がなんらかの音喩を使って音源を表現しており,音喩使用の一般性や容易性が浮き彫りになる結果が得られた。」
 「実験実施日には雨が降っていた。そのため,ほとんどの被験者が雨の音を紙上に記したのだが,そこに数多く見られた「サーサー」や「ザーザー」という文字がマンガの音喩として用いられた例は枚挙に暇がないし,「チャポチャポ」や「ピチャピチャ」にしても,雨を含む水に関連する音喩としては常套手段である。」
 劇中の神崎教授は、まさにこのことについて万丈目について解説する、「雨はどんな音だ」と。万丈目が「ザーザー」「シトシト」と答えると、「君には実際にそう聞こえていたのかい?」と語りかけた。車に反応した赤ん坊に親は「ブーブーだよ」と説明することもあるだろう。同じように雨も「ザーザー降ってるね」と語りかけるかもしれない。教授は、子供・人間が本来持っている表現力を確かめるべく、閉鎖空間を作り出し、そこで子供達を住まわせていたのだ。特定の情報を遮断された子供達は、初めて見たそれを、一体なんと表現するだろうか? 突っ込みどころを内包しつつ、さてしかし、そこで安永は山場でとてつもない演出を施す。
 前述した見開きの連続である。これは手抜きではない。そこに至るまでのコマを見渡せば、山場に向かって周到に準備されていたことがうかがえる。小さなコマだ。作品集のほかの作品と比べるまでもなく、一見して本作のコマ割は細かいし、セリフも多い。1話でまとめなければいけないことを考えれば当然のコマ割かもしれないけど、ではこの見開きはどうなのか。オチの1回ならわかる。印象が強くなる。だが2回続けてだ。最大のオチとなる前にも見開きがあるのだ。遮断されていた情報がなんなのかわかった時、子供達がなんと表現するか見当はついてしまう。それでも、安永は子供達がそれを見た第一印象を強烈なものとするために、それを見開き一杯に所狭しと描ききってしまう。読者はあたかも子供達と同化し、子供達と一緒になってそれを初めて見るような体験を錯覚するのだ。見開きの右上のコマと左下のコマは、それぞれ違う子供達が描かれているが、少しずつ目を開けてそれを見て驚嘆する、という過程がモーションのように描かれている。読者は知らずして、それしかないという表現を思い浮かべる。おそらく子供達もそう思うに違いないはずだ、そうした期待を込めてページをめくると、見開きで一斉に叫ぶ子供達なのだ。前頁の見開きで右上から左下に流れた読者の視線は、オチの見開きに描かれた垂直に延びた密度の濃い流線に煽られるように子供達と一体になって叫ぶのだ、「やっぱりそれか!」と。
 オチの余韻が途切れる前に、間延びせず、すぐに完結するラストが清々しい。万丈目の冷めた視線とこれまで多くを語ってきた教授の一言が読後感を代弁している(オチとなった言葉には擬態語が由来という説があり、子供達の反応はあながち間違いではないのかもしれないが、そんなのはどうでもいい本作である)。
(2007.9.29)
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