「トトの世界」

双葉社 アクションコミックス全4巻

さそうあきら



「神童」の余韻のためか、次の感動を求めて心たゆたう中、ある雑誌で次回作の抱負を述べるさそうあきらのインタビュー記事を読んだ。主題は「言葉」だという。どのような物語かまったく想像できないまま、結局「神童」という稀有の傑作の二番煎じのような作品になるのではないかという危惧を心裏に秘めつつ、単行本の発売を待った。その間に私が思った次回作の世界が、坂口尚のSFめいた哲学的作品「VERSION」と重なるのに時間は要さなかった。ひょっとしてこれか……? と漠然と考えながらも、言葉を覚えるにしたがって世界が広がり、言葉のすばらしさでも安易に訴えられたらたまったもんじゃないな、という不安が膨らんだ。出来れば言葉の世界の表裏を描いてくれないだろうかと過大な期待がかえって作品の面白さを半減してしまうかも知れず、私はとにかく無心で読もうと心得て、発売日を待つ次第だった。
 私にとっては、言葉は重要な、それこそ私の人格を支えてくれるものである。今こうして漫画の感想文を綴ることができるのは言葉のおかげであり、言葉がなければインターネットすら快適にできやしないだろう。第一巻を読んだとき、最初に感じた不安が的中したような思いを抱きながら、まだ物語が錯綜している様子に、なんだか下手に傑作を書こうとしている作者の苦心を感じてしまった。それでも最後まで読み通そうと決めた。
 第一巻には仰々しい帯が付いている。「手塚治虫文化賞マンガ優秀賞受賞+文化庁メディア芸術祭優秀賞作家が贈る野心作」と。インタビュー記事を思い出せば、確かに「野心作」と呼べる作品になりそうだった。漫画で言葉について語るわけだから、なんとも回りくどいというかまどろっこしいというか、正直物語として成立するのか甚だ怪しかったものだ。だからこそだろう、トトの生い立ちの秘密や連続殺人事件を絡め物語の体裁を整えようとしている気がした。田野井の「言葉の世界で地獄を見ろ」という台詞についても深い洞察を避けて、実際無心で読んだ。無心で読んで正直、精彩に欠けた作品になりそうな気配を感じた。どうしても「神童」と比較してしまう自分の浅薄な意識がつきまとっていたのも原因だろう、無心を心がけるあまりに私は何も考えずにこの作品を読んだだけだったわけだ。そう悟って改めて第一巻を読みなおした。
 第一巻で提示される事柄は、この世界をどのように理解して生きるか、ということだ。まず、一般の人間の視点として言葉が登場するのは当然で、主人公・マコトの家族は新聞の誤報によりバラバラになったと語られ、新聞記者・山形のスクープに賭ける意気込みも言葉の世界の住人のひとつの形態であり、マコトの恋人・筆吉が校正者という設定も実にわかりやすく、言葉に翻弄され、またそれとたわむれる人々の思いが交錯している。特に山形は記者らしく言葉にとても敏感で、その端々のちょっとした感覚・起伏から相手の言葉の裏を探り寄せる力を発揮している。また、トトの描写もわかりやすい。トトの感じている世界を実際に描いてみせると同時に、彼の世界観が臭覚から成り立っていることを頻繁に描写している。たとえばトトが匂いから何かを想像する場面がいくつかあり、第4話「もっぺん」・第7話「トト」ではマコトの残した匂いから彼女の行動を想像させている。そしてもうひとつが田野井が言うところの舌、触感だ。後に登場するマコトの父がこれを説明してくれる。冒頭だけで、ひとりひとりが感じる・考える世界観が非常に多様であることが解されよう。
 でも私が気になったのは「人間らしさ」の描写である。マコトの元にたどり着いたトトが垣間見せる人間らしいしぐさというものに笑顔・笑い声を求めるのは道理だが、この辺は主人公がまだまだ未熟であることを示しているわけだ。認知心理学者・甘利教授がテレビで「野生児」という言葉を引用して、「人間たらしめているもの」が何かを問いかけ、さらにペットのようにトトを保護できるわけではないことを痛感させ、いや、これは私自身が痛感したことでもあるが、読みはじめた時点で、トトとマコトが遭遇して共に生活しそこから何かを学んでいくのだろう、という物語は容易に予想でき、実際そうなるわけで、甘利教授の登場がなくても私は単純に二人の物語を読んでいただろうと思うと、己の浅はかさに呆れてしまった。マコトは以前飼っていた犬と同様の感覚でトトに接していたのをすぐに「それは間違いだ、本気でするならそれなりの、一生を棒に振るくらいの覚悟が必要だ」と戒められるのだ。マコトが漠然と言った人間らしさの意味も実は中身のからっぽな思索の無いものだった。安直な展開を拒否し、これは一筋縄ではいかんぞ、という期待が膨らみ、不安は吹っ飛び、たちまち次巻の発売がもっとも楽しみな作品になった。
 さて、第二巻の内容については後に触れるとして、ちょっと気になる作画について言っておく。それは背景の流用だ。漫画ではさして珍しくない技術なのかもしれない、正直私にはどこまでが単なるコピーと言い、どこからが作画方法というのか判断できるほど漫画の書き方に詳しいわけではないので断定できない。読む上で不都合がなければそれでよい。けれども、ちょっと残念に思った、これは私の漫画に対する理想が高すぎる故だろう。
 最も目につくのが第11話の表紙、マコトの自宅前の景色である。この住宅街自体をスクリーントーンのように背景とし、コピーするのなら私の残念な気持ちはだいぶ和らいだと思う。問題はここに描かれたバイクと自転車だ。これがいけない。流用された背景は他にもありながら目くじら立てないのはちょっとした変化があるからで、たとえば居間の絵は同じ構図から描かれることが多く、実際コピーされているけれど、何か書き加えて変化を与え工夫をしている。しかし、先の背景にはそれがない。来る日も来る日もそれらが同じ位置においてあるなんてことはないだろう、人が住んでいるわけだから。ところがそれが頻繁に現れるとなると、内容に言及することの多い私でも作画についてやっばり一言ある。手抜きに見えるぞ、さそうあきら! ひどいのは2巻137頁、トトが吸殻を拾って小躍りする場面。この背景は件の背景の右半分を流用したものだが、さてさて、トトの現在地はマコトの家の前か? どうも違うらしいことは前頁の展開でわかる。マコトやトトたちは家を出て散歩し、公園へ向かう途中にもかかわらず、ここで安易な住宅街の背景を流用してしまったのだろうか。このあたりの展開は、トトが、ものには言葉がついていることを劇的に理解する印象深い場面だけに、なんだかやりきれない、悔しい。
 さてしかし、気を取り直して中身を吟味すると、トトが言葉の世界に惹かれていく様子が丁寧で魅力的に描かれていることがわかる。トトの見るものが当初かすんでいたのは、視覚以外の情報で物を映像化するからだとばかり思っていた第一巻で抱いた安直な考えがあっさり覆された。モザイクが掛かっていた意味は、トトの視覚を人間のそれと同等のものとした場合に生じる、区別がつかない状態・あいまいさを表現していたわけだ。つまり、たとえるならば、まったく知らない人々の群れを見たところで誰とも面識がないのだから顔の区別はつかないし顔を覚える理由もないが、そこに一人よく見知った人がるだけで俄かに群集の意味が崩れ、トトがボールをはっきりと理解するようにその人の顔も明確に識別できるようになるだろう。物に名前がある、ということを理解するだけで、物に対する見方というものが大きく変化するわけだ。
 同時に、トトの世界観に革命が起きようとしていることもわかる。臭覚に依拠していた世界が、視覚と言葉によって新たに形成されていく、この喜びは私も共感できる。私は過去に小説を濫読した時期があって、今からでは考えられないくらい読みまくった。漫画はほとんど読まずに活字の世界に惹かれていく…この感覚は、物語には絵と台詞がつきものだとばかり思っていた私の脳みそを苛烈に刺激した、まいった、ひっくりかえて週に三、四冊は当たり前に没入した。世の中への視線も一変した。トトが飛び跳ねる気持ちも十分理解できる。ひとつひとつ語彙が増えていく痛快さに似ているのだ。ところで、確かに知識は増えた。他の書物を読んでも、理解力が格段に上昇している己を実感した。語彙に乏しかったかつての自分をあざ笑う余裕もできた。で、世界は広がったのか?
 トトの命を狙う謎の人々の手によって家を失い、物語はいよいよ佳境に向かう下準備を整えはじめる、それが第三巻だ。一話一話を積み重ねるごとに高まる物語の興奮は、トトが言葉によって世界を広げていくのに併せて田野井が予言した「言葉の地獄」の真意の輪郭をすこーしずつはっきりさせていく。トトの挙措のおかしさや、信太の間抜けぶりに紛らわされている迫り来る悲劇に読者はなかなか気付かないし、マコトたちもすっかり油断している。それだけに後半の展開は衝撃的だ。一体全体どのように物語を収束させるのかといういらぬ心配に構わず作者の目は冴えていた。まず、トトが「主観」を手にする場面、第25話。トトは視覚から得る情報を整理できるようになったが、いまだ意味は理解できず、詳細は臭覚に頼っていた。それが、穴を見ても犬のように鼻を入れていたトトがそれを目でのぞく、つまり脳が臭覚による情報より視覚による情報を優先した瞬間だ。もっとも、これ以上の読解は専門の知識がない私にはできないのでやめておく。次に、マコトの父が作った像を暗闇で知覚する32頁から36頁の流れが最終話につながり、触感とは異なる形容できない感覚、あえてたとえるなら「心の感覚」と言い換えられるものが言葉よりも重要ではないかという作者の問い掛けに今後幾度も出会うことになる。さらに、「香」の登場だ。大事件の予感を「匂う」と形容した記者・山形はトトに関わって佐渡に渡り、ヒカタクダリと再会する。過去に埋もれた記憶を呼び覚ます手段として、当時の出来事を再現したり、似た状況を作ったりする方法がとられるのは、人間の記憶が「言葉」だけで記録されているわけではないことを皆本能で知っているからだ。そして、トトが海を思い出す場面で「言葉の地獄」がいよいよおぼろげながら姿をあらわす。本来言葉の世界で生きる人間ならば、山形のように言葉以外のもので劇的に過去の強烈な記憶を思い出すのだが、言葉と縁のなかったトトにとってのそれは、まさに言葉であり、言葉がトトの乳幼児の記憶を封じていたのである。
 言葉を手にし、主観を理解し、心を意識した人間が得るものは何か? それは恐怖である。第四巻に突入してトトは「死」を知り、理性的恐怖という感情が芽生えた。ここでようやくトトは人間らしくなったと思える。「死」を理解するには、己を客観視する能力がとても重要だからだ。他の動物は死を理解できないといわれるが、その所以がそこにある。つまり、ある学者の言葉を借りてみるに「動物の脳は一つの鏡にたとえられる。鏡は周囲の世界を映すが、それ自身はどこにも映されない」というのがぴったりくる。では、その客観視するきっかけは何か? それが自分の名前である。トトは自分をトトと認識して主観を手にし、それまで極めて客観的だった言動に自意識が介入したところで、内宇宙(自我)の存在を知ったことになる、これは想像力の獲得とも言えよう。想像力があって「死」の印象もより鮮明になるわけだ。(残念なのは、トトが死を知る描写に筆吉の死があまり絡んでいないところだ。後半の最初の山場であるはずの筆吉の残酷な死に方、ここでマコトは声を失い信太は落ち込んでしまうのだが、トトはてんとう虫の死がきっかけで恐怖を知る。この場面だけではないが、この作品世界は妙に殺伐としている、人物の線の細さもあるし、迫力のない描写も重なって、物事が淡々と進んでいるようにも見えた。それだけに…)、そう、それだけに耳なし芳一よろしく古倉庫いっぱいに書き巡らされた言葉の群れに私は戦慄したのだ。
 学生時代、読書に夢中だったという田野井は言葉の世界の表裏を知って何を感じただろう。言葉にしろ知識にしろ、何かを覚える行為が、想像力の重荷になるということを世間はあまり知らない。だが、田野井は知ったに違いない。田野井だけでなく、津島も香道を通して悟ったろう。また、浮浪者となった書道家・数寄屋橋先生も言葉の裏側の世界を認めたからこそ、単なる文字にそれ以上の意味を与えることが出来た。しかし、巷間に流布する言葉についての誤謬が、彼らを憤らせた挙句破滅させたのだから、あらためて言葉の暴力性を実感した。新聞の報道を鵜呑みしつづける街の人々の無責任な言葉の数々はもちろん、次々と消費される情報に振り回されていることに気付きもしない大衆、そういうものを痛感した山形の死もまた衝撃である。
 そして四巻179頁のマコトの父の台詞はさらに痛い、「いったいどこの誰がそんなトトの平和な生活を奪おうとしているのでしょう」。甘利教授の言葉を受けて独り言のように語られたこの言葉にひやりとせずにいられない。マコトと父の表情の切なさ、特にマコトの目は印象深く自責の念であったひとが後にわかる。失明したトトが臭覚を駆使して生還したとき、マコトは自分が今までにしてきた身勝手な行動を身にしみて感じ入り、同時に奇跡的な再会に歓喜し、最後に「モモ」を語って聞かせたのだろう。
「花の嵐が言いようもなくはげしさをまして、モモまで花になったようにその風にのってうかびあがり、くらい地下道をぬけて地上へ、そこからさらに大都会のほうへと、空をはこばれていったのです。ますますひろがってゆく大きな花の雲につつまれて、彼女は家々の屋根をこえ、塔をこえて飛んでゆきました。それはすばらしい音楽にのった心はずむおどりのようでした。彼女のからだは上へ下へとふわふわただよい、くるりくるりと回転しました。/やがて花の雲はゆっくりと空をおり、花々は雪のように、静止した世界に舞いおちました。そしてまさしく雪のようにしずかにとけて消えました。ほんとうの居場所に帰ったのです――人間の心の中に。」(ミヒャエル・エンデ作・大島かおり訳「モモ」岩波書店より)

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