「海辺へ行く道 そしてまた、夏」

作り物の世界を侵食する現実

エンターブレイン ビームコミックス

三好銀



 三好銀の連作「海辺へ行く道」が「夏」「冬」と経て、「そしてまた、夏」と三巻目となった。帯の文句によると、この巻で「フィナーレ」となるようだが、物語の行方は全く曖昧なままで、いつ続きが始まってもおかしくない。けれども、この連作の最終話となった「私家版「噂鳥について」」という前後編にわたる挿話は、物語を象徴するものとして相応しいだろう。
 というのも、三好銀の描くキャラクターの無機質な表情や、不思議な街並みの不気味さというものが、これまでにないほど、この巻に詰まっているからである。「夏」について私はこの作品を「何も起きないドラマ」と題して感想を述べたわけだが、何か起きそうで起きないもやもやした感触はいつもどおりであるものの、キャラクターの生気のなさが極まるところまで極まった感があるのだ。「人形のような」と自分で書いたけれども、今回のキャラクターはそれにも増して気持ち悪いのである。
 何故か。もともとこの物語発端となった美術家のA氏という謎の存在に代表されるように、この物語には多くの創作者たちが登場する。学校新聞の取材を通して町について語る主人公格の奏介は女子高生天気予報士の立体造形物を製作し、テルオは老人の特殊メイクを施し、造花の庭を造ってしまう庭師も登場する……彼らは、全て偽物を作っているのである。また、これに限らず劇中には詐欺師や女装した下着泥棒など、何者かに成りすました人物も登場し、何が本物なのかが判然としない世界が繰り広げられるのである。
 これは、この作品の特徴的なキャラクターはもとより、マンガとしての面白さに満ちているといっても過言ではない。「ロニー・下村の埋葬」という挿話の冒頭では、下村氏が町内のゴミ捨て場で自分のマネキンを発見する場面が描かれるけれども、下村氏とマネキンはそっくりというよりも、全く同じに描かれているのだ。そして、実際に死体と間違われるような展開まで用意され、読者自身が彼の存在の不確かさを味わうのである。もちろん一読して、今描かれている下村氏が本人なのかマネキンなのかは理解できる。けれども、マネキンとしての嫌われっぷり・気味悪さを口にするキャラクター達もまた、下村氏と同じような顔立ちとして描かれているのだから、まるで自分たちの姿を否定しているような印象を与えるかもしれない言動なのである。並行して描かれる特殊メイクされたすでに死んだ老人の仮面をかぶる話にしても、老人のメイクは、説明がなければ劇中に実在するキャラクターと勘違いしてもおかしくない。ここでは、メイクがはがれて正体がばれるという結末が用意されているけれども、作り物っぽく描かれない造形物は、そのまま劇中のキャラクター達を造形物のような、もっと突っ込んで言えば、偽物だらけのような錯覚さえしてしまうのである。
 「カナリア笛を吹いてごらん」の冒頭では、見開き一杯に草花が咲き誇った庭が描かれる。その花々の匂いでむせ返りそうな印象は、しかしすぐに破られる。造花なのだから当然だ。また、カナリア笛という本物の芸術家と偽物の芸術家を聞き分ける笛も登場する。本物が吹くときれいなカナリアの声が聞こえ、偽者が吹くと耳障りな音が聞こえるというのだ。奏介は「ピピピ」ときれいな音色を吹くけれども、結局、吹くのは彼だけで、耳障りな音がどんなものか全くわからないまま話は終わってしまう。このなんともいえない未消化具合もまたこの作品の魅力なんだけれども、だからといって「ピピピ」という音色が本当に鳥の声と勘違いするほどのものなのか? 劇中のキャラクターは確かに勘違いするけれども、そこには何の保障もない。カナリアの鳴き声というからには、読者はそれを信用して読むしかないのである。読者が漠然と読み進めているキャラクターが本物なのか偽物なのか? そんな考えもしなかった不安が、劇中には充満しているのである。
 そして最終話では、自称66歳の人物が登場するわけだが、およそ初老の人物には全然見えないのだ。「失礼ですが」と年齢を確認する質問に平然と首肯する彼の顔立ちや皺の描かれ方は、この作品に通して描かれた老人の描き方と違うのだから当然なのだがら、本当に66歳なのかという疑問も生じる。もちろんこの作品が読者の素朴な疑問に答えてくれることはない。66歳というのだから、もうそれを信用するしかない。このSさんと呼ばれるキャラクターは「噂鳥について」という本の作者ではないかと言う疑惑があり、本編でそれを探る記者も登場するものの、やはり解明されることなく物語は終わる。
 どこか寓話めいた、それでいて相変わらず「何も起きないドラマ」でありながら、ほとんどの読者が感じたであろう現実感が、この不思議な世界観をまとった物語の中に闖入しているもの、さてしかし、事実なのである。東日本大震災だ。
 劇中では、節電詐欺師の挿話がある、一定の電力以上を消費した方には罰金を科するという方便による振り込め詐欺である。あるいは、川上から流れてくる箱を「東北から流れて来たか?」と思う人物もいる。現実的な街並みとはかけ離れていながらも、完全にそうとは言い切れない不確かな世界を構築してきた物語でさえも、震災そのものの影響からは逃れることが出来なかったと言えるが、同時に、そうした現実感がわずかにあるからこそ、物語の世界の全てが作り物だらけとは断言できない曖昧さも内包している。そもそも、これでホントに連作が終わりなのかさえ曖昧で信用できない。この矛盾めいた感触こそが、「海辺へ行く道」のかけがえのない魅力なのかもしれない。

(2012.2.20)

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