「わがままちえちゃん」 夢にはぐれてかくれんぼ

「わがままちえちゃん」

エンターブレイン ビームコミックス

志村貴子



 死んだ姉が幽霊になって妹の下に現れ、妹の世話をあれこれ焼きながら、妹はやがて大人へと成長していく、そんな話だと思っていた時期がありました、志村貴子「わがままちえちゃん」。まあ、これってそのまんま大林宣彦監督の名作映画「ふたり」なわけなんだが、冒頭から続いた死んだ姉と生きている妹という構図が、実は早々にひっくり返されて、姉が夢で見た死んだ妹の姿だったという仕掛けに、びっくりするわけである。
 優秀な姉と常に比べられ続けていた妹という構図の「ふたり」に対し、さほと双子の姉妹だったちえは、さほと比べられることに嫌悪していた。その感情はひねくりまわって、二人の関係は、さほの死をいつまでも自分の責任だと念じ続けるちえの錯綜した回想により読者を惑乱させた。冒頭のちえの振る舞いは、自分の夢の中でありながら、自分が何者なのか見当もつかない有様で、生きていたのか死んでいたのかすらわからない。ちえの不安定な心理状態は、そのまま物語の不安定さに直結している。まるで、はなっからストーリーが理解されることを拒むかのように・もちろん慎重に読み進めれば展開の流れは把握できるけれども、読み込もうとすればするほど、ストーリーの核心はするりと掴めずにすり抜けていく。
 さほの髪の色や服装の描き分けから、幽霊のさほか・ちえの夢や創作の姿なのかは区別できるとは言え、虚にまみれたちえの創作・ななえおばさんに宛てた手紙の体裁を借りて語られていたことが後に明白になる第四話までの展開は、どのキャラクターも何が本当で本物なのか理解できず、もっとも物語を把握している当の主人公であるはずのちえをしてわからない風を装っている。
 さりとて、話がわからないと訴えて作品の魅力が減ずることはなく、それどころか、高校生になったちえのエキセントリックとも言える性格設定によってストーリーがぐいっと引っ張られていくのだから面白い。
 自分とさほの関係から広がって周囲と自分の間の溝にわだかまっている「嫌われてたくない」という感情を、ちえは自分には「心がない」と解説する。他人の気持ちがわからないので、自分の感情に基づく言動で周囲を振り回してしまうから、他人からどう思われているのか恐れる一方で、どう思われているか本当はどうでもいいのではないか。実際に彼女が妹に声が似ているという理由で近しくなった利根川まいに唐突にキスをしたり、占い師の若い男・久保田とあっさり身体の関係に至ってしまったりする行為に他人への配慮は感じられない。まるで好かれようとする意志がない者ゆえの真っ正直な言動のように思える。
 だが、家族や死んださほに対してだけは、どうにも上手く立ち回ることができない。本当に嫌われたくないのは、彼らであり、最も嫌われたくない相手がさほなのだ。だから気を遣ってどうしても嘘を付いてしまう。
 当初、さほは道案内を訪ねる何者かの車に乗せられ、その先でよからぬ出来事に身体を傷付けた、という過去がちえによって語られたが、もちろん創作であることが明かされる。おそらくは、その日のそろばん塾の帰途にさほの事故の報に接したのであり、この創作話は、事故に遭わずにさほが家に帰っていたら……という妄想に基づいているのかもしれない。この物語は、ちえ自身が語るとおり嘘つきでずるい人間の物語であり、その言葉をまともに受け取ってはならない。だから「ほんとうのさほは わたしのことが大嫌いでした」という第四話のラストカットまでの彼女の言葉は、後の展開で解きほぐされていくことで、その真の意味が理解されていく。ちえの言葉ではなく、ちえの周囲のキャラクターによって。真実を語るのは、主人公以外のキャラクターなのだ(ちえの本当の言葉は最終話まで待たなければならない)。
 ちえの乱れた感情を宥めるのは、ななえおばさんの言葉であり、利根川まいの言葉であり、さほの言葉なのである。
 こうして真実に近付いていく過程で物語はちえだけのモノローグの世界から解放される。ちえの夢から放たれたさほの主観である第八話で、さほが交通事故で死んだことや、道案内の車も老夫婦で、その場にはちえも居たこと、かわいい姉妹と言われたことなどが明かされる。ここで重要な描写がさほの服装である。
 実際にさほが事故死したのは、道案内の日からいくらか過ぎ、ちえに「ちょっと嫌い」と言ったあたりと思われるが、老夫婦からかわいいと言われて、互いに顔を見合わせる瞬間が、おそらくさほにとって最もちえとの幸福な思い出なのかもしれない。だから彼女は、幽霊として姿を現すとき、その時の服装で登場しては、ちえに気付いてもらおうと足掻くのである。
 一方、ちえにとってさほのその服装は、第四話のラストカットで明らかなように、冷たく生気をなくしてこちらを見詰める、大嫌いだという視線なのである。
 このすれ違いが、そのまま二人の出会えない物語として機能している。いつか二人は邂逅してわだかまりを解消するに違いないという期待で読者を引っ張り続けながらも、作者は安直な解決法を用意しない。ちえのキャラクター性のように実にそっけなく、久保田という通信手段を得ながらも、ちえは信じることが出来ず、なかなか二人は会話が出来ないのだ。
 ちえのタイトルどおりのわがままさ、死んださほに会いたいというとおり、他人にとってはどうしようもない欲望は、中学生の時は夢や創作によって果たされていたが、ななえおばさんの言うとおり暴走の体をあらわにしていった。高校生になると、その代替は利根川まいによって想起され、早々に果たされることになった。だが、彼女自身予想だにしなかった事態となる。なにせ相手は意志も考えもある他人なのだ。確かに夢は思い通りの展開にならないけれども夢は文句を言わない。でも他人は違う。利根川という存在は、ちえが求める擬似妹ではなく、友達へと移行していくことで、他人との関わり方をちえは知っていくのだ。
 中学の同級生のありさと再会した場面にしても、ちえがずっと気にしていた猫のサリーは、ありさにとっては気にも留めない話題となっていて、利根川の嫌いだけど好きという言葉の意味を理解していった。自分が思うほどに、他人は自分を気にしていない。それは、ちえとさほの関係においても同様なのだ。好きだけど嫌い・嫌いだけど好き。矛盾する感情を互いに抱えあえる関係こそが、家族であり、さほとの関係であり、親密さの証左だったわけだ。
 それでもやっぱり、さほの声はちえに届いて欲しい。そのくらいのわがままは、言ったっていいよね。
(2015.4.3)

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