「わかってないのはわたしだけ」

講談社 KCデラックス

鳥飼茜



 友達同士5人の女子高生の恋愛観を荒々しい筆致で4編の連作にまとめた鳥飼茜「わかってないのはわたしだけ」は、独りよがりな彼女たちと、彼女たちの言動を見守る彼女たちという入れ子構造のように描ききった佳品である。
 彼女たちの名前が副題となり「れいとエリ」「慶」「杏」「ミミ」の4編がそれぞれ補完しあう形で成立しているために、「れいとエリ」を読んだ時は、正直わけがわからなかったというのが最初の印象である。それが次の「慶」を読み始めると、前回登場した二人が慶の友達として・もちろん慶も前回は二人の友達として登場しているわけで、これは相互にからみあったお話なのかと合点し、改めて「れいとエリ」を読み直すと、4編中一番の純愛がこれなのか……と、今純愛を描くとしたら、女の子同士しかありえないんだろうかと、なんか落胆してしまったのである。まあ、そんな個人的な思いはどうでもよくて、非常にバランスが取れた4編をそれぞれ読んでいきたい。
 「れいとエリ」は、文字通り二人の思いが複雑な様相を呈していく様子をがっつりと描いている。がっつりっていうのは絵であり、コマ割のことなんだけど、唇の厚さをはっきりと描く傾向があり、間白をほとんどとらないコマが連なり、建物の絵とか雑だけど、空の景色や夜空は汚いながらも力がみなぎっている。この背景の下手っぷりは「ミミ」編になるとだいぶがんばって上手く描いてるなってところまでいくんだが、けれどもこの雑然さが、構図・特にモノローグの入れ方の大胆さと交感して、作品の面白さとして嵌っているのである。線の筆致が統一されてるから、違和感はない(絵の傾向は……あまり詳しくないながらも、とりあえず雁須磨子とかジョージ朝倉とかその辺が混ざってる?)。
 さて、美人のれいと背が高く男に間違えられることもあるエリの二人は、いつも一緒でとても仲がいい。友達(慶、杏、ミミ)からもそんなにいつも一緒で飽きないの? と言われるほどだが、二人の関係は、同じ高校に通う柴田にエリが告白され、なんとなく付き合い始めることから崩れ始める。男子にモテモテのれいは何度も告白されているけど、ことごとく振っている。中学時代から親友としてその様子を見ているエリにとっては、れいが何故そんなに男を拒むのかわからない。柴田に告白されても「れいじゃなくて?」と戸惑うほど、エリはれいがもてる事実を前に卑屈になっていた。付き合い始めても、その思いが払拭されることはなく、れいには一生秘密にしなければならないと固く決意したのも束の間、二人の関係はあっさりとれいの知るところとなってしまう。これを機にエリはれいと柴田とも面と向かえあえなくなっていく。れいに対する劣等感は、柴田はれいと付き合ったほうがいいというひねくれた思考を導くのである。
 友達がどんな思いで自分と接しているのか。あらすじだけを書き出すとれいがエリに対して恋情を抱いていることは明白だが、劇中では、エリのそれは友情の延長線に見えるような装飾が施されている。エリを「わたしの王子様」とちゃかすように言うれいの本心は、どの程度本気なのか見当がつかない。終始エリのモノローグに彩られたコマが続く中で、読者の視線は自然とエリの感情に向かっていく。もちろんれいが柴田に言い寄るかのような場面も忘れない。
 二人の態度はマンガの構図の典型としてよく表現されてもいる。各話の表紙はどのキャラクターも右を向いているので作者の得意な人物絵はその角度かもしれないし単に左利きなんでそっちのほうが描きやすいのかもしれないけど、マンガは右から左に進行するわけで、物語の先にすすむにはキャラクターも左を向きやすい。本作でも先に進もうとする人物は左に向かい、それを遮るものは基本的に右を向く傾向がある。この特徴はラストシーンで効果的な演出を促した。
 劇中のエリは、特にれいと柴田と距離をとり始めてから左(物語の先の展開。未来)に向かう意識が強くなる。柴田とのことを早く忘れたい・れいとの関係も無にしたい、という彼女の思い込みが、先へ先へ急ぐ・早く早く忘れたいという態度になる。そこに立ちはだかる柴田。彼はほとんど右向きに描かれる。ラストではエリの邪魔者然とした印象さえ与えかねない障害である。そこに駆け寄るれい。避けられ続けたれいはエリの背に向かって本心を吐露するのだ。逃げるように描かれるエリとそれを追うれいという構図が終盤で出来上がる。当初、れいのお守り役みたいな存在でその傍ら・後ろにいたエリは、れいを追い抜いていたのである。関係が逆転した二人。れいの気持ちを知ったエリがとった態度は……読んで確認していただくとして、この左右の立場に着目すると、続く「慶」も一層面白く読めるかもしれない。
 秀才の慶が担う物語は家族の話であり、兄への感情である。2年前に父が家を出て母と一緒に暮らす彼女は、いつも家で兄の残した音楽CDを聞いている日々。そんなある日兄がひょっこり戻ってくる。上京するために家にある自分の荷物を取りに来たのだ。そこには彼女の唯一の慰めでもあった音楽もある。中間試験の最中に教室を飛び出した慶は、部屋に閉じこもってしまう。そして兄が帰宅するや、自分も東京に連れてってくれと抱きついた――
 慶の感情は、兄のCDを聞く場面がほとんど右向きに描かれる点から察せられる(評論みたくもっともらしく言えば「過去ばかり見ている」)。母には付き合っている男性がいるらしい描写による彼女の孤立感、友達とも打ち解けて話せず相談しない。彼女は、追いかけてきたミミに「言ったってわかんない、他人だよ」と突き放してしまう。だが彼女がすがりついた兄は、妹を一顧だにせず東京にいってしまうのである。
 慶はどこに向かっていたのか。兄に抱きついた時、彼女は兄を追いかけているかのような演出が施される(右から左に向かう慶)。ところが彼女の存在は、兄にとっては障害物でしかなく、兄がやんわりと妹を引き剥がすコマをはさみつつ場面を転換して頁をめくると、妹は兄にとって邪魔者でしかないかのような構図が敷かれる(「れいとエリ」の終盤と同じだ)。東京へ音楽をやりにいく兄と、それを引き止めるかのような立場に演出によってたちまち追い込まれた妹。「あたしも行く」というふきだしを言下に否定、「無理」とはっきり言い切る兄のふきだしが強烈だ。人生の選択を迫られる時は突然やってくる。慶はラストでどちらを向いているだろうか。
 続く「杏」になると、前2作とは色の違う物語が、4編中もっとも少女マンガっぽい展開ではじまる。「かわいい」が大好きな杏は、かわいいものを買うためならハードなシフトのバイトも覚悟する。そんなバイト先で一緒に仕事をすることになったフリーターの青年は、第一印象最悪で……というお約束からはじまって、「ちょっといいかも」「なんか好きかも」→喧嘩、そして……という王道を踏んでいる。杏の「かわいい」という思考回路は、なんでもかんでも「かわいい」としか表現できない女子高生に対する揶揄もあろうが(喧嘩の原因はにもなる)、「かわいくないのにかわいい」という発見の場面は、過去(父からこっそりプレゼントされた下手くそなお姫様の絵入りのコンパクト)をカットバックすることで、彼女の青年への想いが強化される演出が利いている。
 話がすすむにつれて、演出の上手さが見えてくる。勢いだけだった「れいとエリ」も、「慶」さらに「杏」と、過去の一場面が本人すら気付かない本心を浮き彫りにさせる構成がキャラクターの言動に説得力をもたらしている。わがままで奔放な彼女たちのモノローグが多用された・主人公の思いを前面に押し出した自己主張の激しい物語でありながら、押し付けがましさをあまり感じないところにも好感を抱く。簡単に言えば、各主人公たちの強すぎる個性は他のキャラクターに拒絶されることで物語に転機をもたらし、彼女たちを救うのは友達である点である。4つの掌編がひとつの大きな物語「わかってないのはわたしだけ」にまとめられているのも友達の効果だ。拒絶された先にあるものは、れいとエリは他人(劇中では柴田)を寄せ付けない二人だけの特別な関係だった。慶は兄に拒絶され孤独になることで友達の存在を知った。杏は趣向が否定されることで本当にかわいいものを見つけた。では最後の「ミミ」は何に拒絶され、何を得たのか。彼女がどちらを向いて待っている友達と対面するのか。
 私はミミの友達と一緒にちょっと呆れたけど、それこそ感情移入の賜物だろう。4編でもっとも自由でやりたい放題のミミが最後に得たものは、案外、読者の共感かもしれない。
(2007.9.29)
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