谷川ニコ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」14巻

対話の距離感と、作者と物語の距離感

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 単行本が出るたびに地味に買い続けていた本作が、ここ一、二年で連載初期頃のような人気を急速を取り戻し、今ではそれも超えたのではないかと思うほどの注目作品の一つになった感があり、驚いている。アニメ化も喜んで観て、DVDも購入し、その後作者が毎巻部数絞られていると自虐するほどに話題にならなくなっても面白く読み続けたいた私にとっては、自分のことにように嬉しくある。
 さて、そんな感慨の中、何故、本作が再び盛り上がって来たのかを自分なりに考えてみたい。キャラクターの成長や群像劇化による青春コメディや百合的な関係性など、すでに指摘されている件もあるだろうが、基本的にキャラクターの対話劇として進行する、物語の演出というものに着目してみたい。というのも、個人的には、この作品の演出そのものには、それほど面白味を見出してはいないのが正直なところだ。でも、それはあくまでも私個人の感想であって、私の趣味と言うか嗜好の問題であって、決して演出が下手だという意味ではない。
 マンガの演出・つまりネームは、どうやって場面を構成しレイアウトするかっていう所にやや乱暴だが言い換えられるわけだが、もっと簡潔に言えば、物語の雰囲気をどう読み手に伝えるかとも言える。抽象的な言い回しだが、いくつかあるネームの構成について考えられる一つに、映画的な演出が挙げられるだろう。この場合、キャラクターの位置関係やレイアウトは当然、カメラを想定した動きが基本となり、仮にその場面が映像化されたら、どう映像化されるかが容易に想像できるネームということだ。カメラワークがそのままコマ割に変換され、フキダシやキャラクターの位置関係も考え抜かれて配置される。一方の「私モテ」の場合は、これとは真逆にあると言っても過言ではない。この作品で重要視されているのは、キャラクター同士の駆け引きや対話であり、あるいは内面描写や読者との関係性というものに重きが置かれており、映像的な演出の対義語としてなら静止画や写真が相応しいのだが、ここではあえて高尚っぽく詩的という言い方を選びたい。説明描写を省き、キャラクターの感情だけによる物語でネームが構成されている。もちろんこれは、あくまで言葉の綾であって、この作品がことさら文学性が高いという意味ではない。
 では、具体例を見ていこう。
  14巻4頁 14巻4頁
 図は学食をみんなで食べる場面、卓に着いた各キャラクターの位置関係を確認しよう。右から背中を向けた茜、根元、中央に黒木(主人公)、小宮山、最後に背中を向けた伊藤の五人である。背後の擬音からも食堂内の混雑ぶりが想起できよう。 ここの中心は黒木であり、彼女の感情がこのコマ一つで表現されている。
 黒木と小宮山が中学の同級生だと知って二人は仲良しなのかと何気なく質問した根元に「いや 全然仲良くないけど」と応じた黒木と小宮山に対する三人の反応が下図である。
  14巻5頁 14巻5頁
 この作品でよく見られる位置関係の圧縮である。両端の伊藤と根元は、実際にはそれぞれ小宮山と黒木の隣にいるが、このコマでは、一緒に仲良くないと応じた黒木と小宮山と対峙する形で三人が配されている。特に伊藤の前傾気味の姿勢が圧縮して描写した様をよく表している。あまり関心がなさそうな中央の茜が食事を進め、伊藤と根元の言い表しがたい表情は、次々図と対比することで掴めてくるだろう。
  14巻6頁 14巻6頁
 続く場面では、近くの卓で食事をしていた田村・田中・吉田の三人が、五人の会話に割って入る。引用図は、右に根元・左に黒木と、その間に文字通り田村が唐突に割り込んできた。もっと近い距離だった根元と黒木の間が実際よりも開いたことがわかる。田村の強引な言動の表れをこのような距離感で演出したものである。感情の揺れが根元の焦りの汗や黒い服の田中のうつむきがちな表情の汗で察せられる。割と客観的なコマである。
 田村は黒木の弟を誰よりも知っていることを誇示するも、弟に好意を寄せる小宮山が挑発めいた田村にのせられて激高してしまう事態を招く。小宮山は黒木に窘められてどうにか収まった。下図はその時の三人の表情である。
  14巻7頁 14巻7頁
 右の伊藤がよりコマの中央に近づき、小宮山と距離を取っていることがわかる。伊藤は小宮山の憤りに対して「一瞬でみんなをどん引かせた」と冷静に状況を分析し、自ら小宮山から距離を取って「見」に徹しているわけである。
 けれども小宮山の暴走は吉田と黒木の弟・智貴の会話により再燃してしまう。短気ですぐに手を出すことから「ヤンキー」と黒木から呼称される吉田が応戦、一色触発の様相を呈する。
  14巻14頁 14巻14頁
 今度は伊藤と黒木の距離である。二人の間には小宮山がいたが、彼女は席を外している。微妙な間は、そのまま小宮山の不在の間である。ついに黒木の表情にも焦りの汗が描かれるも、小宮山と長い付き合いのある伊藤は、なお冷静だ。だが、五人の位置関係は変化していた。このコマの前頁のコマが下図である。
  14巻13頁 14巻13頁
 小宮山が感情に駆られて吉田に迫ったことを後悔している場面で、彼女が五人がいた卓を見ると、最初の引用図もよくよく見れば茜は一人距離を取られているような構図だが、いずれにせよ、あのような圧迫感はなくなり、根元と伊藤は茜から距離を取った位置に座っている。立っている小宮山にとっては、一人で取り残されているような感覚もあるだろう。
 もちろん、これらキャラクターの位置の微妙な変化は、彼女たちが実際に動いたわけではない。キャラクターがその時感じている状況をこの微妙な距離感の変化で表現しているのである(作者はそこまで考えてなさそうな感じでもあるんだが、ここはひとつ作劇の上手さとして好意的に捉えよう)。個人的には映像的な演出としては拙いなぁと思ってしまうレイアウトがないわけではないが、フキダシとキャラクターの配置を中心にした作劇は、距離感やキャラクターの位置関係を見ていくことで、今、このキャラクターが置かれている状況を考察するヒントになるのである。
 すなわち、「私モテ」の構図は、そのコマの主たるキャラクターの感情が反映されているのだ。
 さてさらに、忘れてはならないのが、複雑に絡み合うキャラクターの思惑もさることながら、長い連載によって積み重ねられたキャラクターの、特に黒木の成長である。結論から言えば、作者の物語に対する姿勢の変化でもある。それについて最後に簡単に触れておこう。
 12巻に遡る。二年生として卒業式に臨んだ黒木が、先輩として唯一と言っていい交流があった、生徒会長の今江恵美との抱擁に涙する、物語当初の自虐ギャグっぽい流れからは想像できない感動的な場面である。ここでは、一年生の時の卒業式の様子が踏まえられている。5巻である。式の最中に中学生時代の哀しい思い出を思い起こして違う意味で泣けてくるユーモアを挟みつつ、式の後、校門付近で一人佇んでいる卒業生を見かける。自分と同じぼっちだとなんとなく近づいた黒木は、話しかけるでもなくさらに近付くでもなく、適度な距離を置いたまま、遠くから卒業生との別れを惜しむ人々の輪を眺める。写真を撮ったり撮られたりといったぎごちない黒木の様子も微笑ましく、ぼっちの卒業生とのささやかな交流もすぐに終わり、彼は去っていく。この時、黒木は掛けるべき言葉「ご卒業おめでとうございます」を言えなかったことを後悔するのである。
 12巻で描かれたた卒業式の様子が、この黒木の反省を踏まえて描かれている点もさるこながら、文化祭で抱擁されていたことを思い出す展開は、おそらくアニメ版の影響も大きいだろうと踏んでいる。
 アニメ一期の最終話である第12話で、今江が黒木に何故目をかけていたのか、原作にはないシーンを挿入して友達に説明するくだりがある。
「黒木さんって子。ちょっと可愛いのよね。いつも何かに必死で、目が離せない、みたいな感じで。」
 そして、DVDにおまけで付いている作者描きおろしのマンガには、もし文化祭で今江がぬいぐるみでなく生身で抱きしめていたら、という二頁の掌編がある。ゆうちゃんに抱きしめられて興奮してしまう黒木のように、今江の臭いを嗅ぎ下半身をまさぐる黒木がギャグとして描かれる。だが、前述したように、12巻で実現した生身の抱擁に黒木は特に何もしない。「いつも気付くのが遅い」と後に呟くだけだ。
 黒木の下品な煽りや妄想ネタ、悪意も善意もすべてひっくるめてキャラクターに吐露させる裏表のない感情表現による演出、そしてネタが付きつつあったと思われる3巻4巻あたりから一年の卒業式を前後して成長物語へと舵を切った作者の判断、奇跡的に全てが良い方向にかみ合った「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」は、まだまだ面白くなるのだ。

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