「私の無知なわたしの未知」1巻 あたしのあした

講談社 KCハツキス

百乃モト



 小学校三年の時に両親が離婚して以降、小料理屋を営む母親と二人暮らしで、慎ましく暮らしてきた主人公の嶋田湊は新社会人として某会社で事務働きに励んでいた。幼馴染の4つ年上の晴人とは母公認の仲でありながらも、湊自身は彼との関係に恋愛感情を抱いていなかった。母に負担をかけないように自分の意志を押し殺して好きなピアノも趣味にとどめて生きてきた湊であったが、晴人のプロポーズをきっかけに、自分の意志をひとりごちた。「息苦しい」。
 百乃モト「私の無知なわたしの未知」の1巻の表紙は、女性二人が寄り添う、いわゆる百合物に属する作品だとすぐに知れるが、物語の行方は、主人公の湊がタイトルどおりに公人の「私」と私人「わたし」の間で揺れる心理劇となっている。
 湊と寄り添う女性は同僚の朝海である。職場でミスをフォローしてもらったことをきっかけに近付いた二人であったが、成り行きのままに・酔っていたとはいえ朝海と一晩過ごすことになった湊は、母が望む自分との関係や、晴人が望む自分との関係を壊さないことに懸命だった。傍から見れば確かに真面目であるものの、彼女自身の本心は常に後回しにされ、そのまま抑圧されていた今までの自分を解放することになった。晴人のプロポーズを今はまだ結婚とか考えられないと、はっきりと断ることで、自分の意志を表明する重要さを噛み締めることになった。
 だが、朝海が湊に近づいた理由は曖昧なままである。このあたり、1巻では仄めかす程度でミステリアスな雰囲気を醸し出している彼女のキャラクター性と同調している。常に湊を見守っていた母や晴人とは別の角度から・影から湊を見守っていたのかもしれない朝海・もちろんそれは2巻以降の展開に湊・朝海・晴人の三人の関係性よって大きく変化していくだろう物語の見所であるが、朝海と親しい郁という女性の存在もまた、朝海を客観的に描写する役割を十分に負っている。キャラクターを一人ぼっちにさせないことで、説明調のセリフを会話に取り込んでいる。
 それでも冒頭からしばらく読んだ直後の印象としては、説明調のセリフが多く、それは確かにどんな環境で育ちどんな性格でどんなキャラクターなのかを読者にいち早く伝えるためには仕方のない作劇なのかもしれないが、主人公周りのキャラクターたちがどんな役割・立場なのかをさっさと説明する一方で、朝海はどんなキャラクターなのか説明がほとんどなされず物語を進める中で徐々に明かしていくだろう構成は、彼女を前述どおり謎多き女性として際立たせることに成功しているだろう。また、晴人(これまでの建前の生き方を全肯定してくれる存在であり「私」の顔を認めてくれる)と朝海(自分も知らない本当の自分を引き出してくれる存在で「わたし」の顔を知っている)との間で、懊悩する主人公のモノローグが多いのも道理だが、朝海の登場により、プロポーズを二つ返事で受け入れられると思い込んでいた晴人にとっても、自分の本心をむき出していくことで、キャラクターの二面性が引き出されていく展開が期待できよう。おそらく湊の母親も、何故離婚したのか・湊が趣味で弾くピアノが父が作曲した曲だったなども含めて、その過去が暴かれていけば、母・朝海・晴人と異なる三人の関係とともにドロドロした展開が期待できる。ガール・ミーツ・ガールで終わらない昼ドラ的展開もまたよしである。
 さてしかし、1巻の面白さは1話で朝海に抱きつかれる湊と、1巻ラストで晴人に抱きつかれる湊の両描写の違いである。簡潔にいうならば浮遊感であろう。朝海に押し倒された次のコマで背景が消える。このコマ、湊は酔いもあって赤面しつつも、見つめる。朝海も酒を飲んでいながら酔った様子は微塵もなく、上から湊を凝視するも、その手に力は感じられず、あまり抵抗したそぶりもなければ、無理やり覆いかぶさった印象も薄い。自然とそうなる流れだったような構図である。続くコマではキャラクターの形そのものの背景が黒く省略され、背景もときめきのようなトーンが貼られる。
 晴人に押し倒された場面では、自分の気持ちを自覚した湊が、晴人の葛藤と思われる心理を引き上げるように主導権を握って気持ちを打ち明ける。朝海に押し倒された次のコマと同様の場面に持ち込もうと読者を誘うも、次頁を捲ると湊が晴人の好意を受け入れた上で、静かに彼を抱き寄せるのである。ときめきのようなトーンだが、キャラクターの背景がしっかりと描かれたままだ。「ドキドキするけど やっぱり 違う」。この違いが浮遊感の差だろう。
 冒頭、レールの上をまっすぐ歩くと俗に形容される湊の人生は、朝海の登場によって瓦解した。彼女とキスしたとき、崩れ去ったのは、その先ではなく過去、自分が今まで歩いてきたレールである。朝海が湊の人生に今までどれだけ干渉していたのか? もしすべてが朝海の望んだ結果だとしたら、母や晴人が敷いたレールから、朝海のレールに軌道を変えたに過ぎない。
 自分をあたしと呼称する湊は、自分の敷いたレールの上を歩ける日は来るのだろうか。今はまだ、「私」とも「わたし」とも呼べない。
(2015.6.8)

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