「やさしいからだ」3巻

エンターブレイン ビームコミックス

安永知澄



 「やさしいからだ」は独りよがりである。3巻目にして完結をみたが、このまま連載が続いてもおかしくはないし、途中でこれが最終話でしたとなっても変じゃない、物語の輪郭がはっきりしない作品である。だからこそ、私は素晴らしいと思う。オムニバス形式でありながら、各編が切れそうな糸で繋がっていて、読者はそれをあっさりと切ることもできれば、補修して明瞭な線にすることもできる。そもそも糸の存在すら気付かないかもしれないし、ないはずの糸を読者が紡いでいないとも限らない。作者の意図は知らず、読者は好き勝手につきばきの各編を一つにして考えたり面白がったり、つまらないと投げたり読まなかったりして、それでも一目読んでしまえば、作品に関わってしまった者の一人として、次はあなたの主観による「やさしいからだ」が描かれるかもしれない。だから、わけがわからなければ、わけのわからない作品として放置しても全然問題ではない。誰もあなたのこの作品についての評価なんて気にしてもいないし、期待してもいない。各編の主人公があれこれ苦悩するのをよそに次の物語が始まるように、素っ気ないものだ。
 もちろんそれは私も例外ではない。おっそろしいくらいに冷徹でもある本作は、読者に何かを期待してはいない。いや作者はこの主題理解してくれよという思いがあるかもしれないが、主人公の思い込みだけを表現しているだけに、他人が主人公をどう思っているか・他人の評価が見えないから、まるで自分のことのように私も不安になる。承認欲望みたいなものは、単なる自意識過剰で片付けられるかもしれないけれど、他人の評価を基準に行動してしまいがちな時、当の他人がいないとたちまちにして不安に見舞われる。見舞われるというと災難みたいだから、むしろ日常ある隠れた不安が見えるだけのような感覚、しかも自分のことだから理由もわかっているし説明できる部分もある。でもそれを語ってしまうと、自分自身が陳腐に思えてしまう。
 短編「落日」がある。主人公の少女の家に叔母さんが出戻りする。親戚だけど少女にとっては他人同然で居心地が悪い。言いたいことを友達と打ち明けあっても、私は本当に全部話しているんだろうか・友達だって全部話しているとは限らないしと苛々しがちなところに、叔母さんが少女の部屋で過去の話をする。それは出戻りの理由とかいう話ではなく、都会で見た夕日と田舎で今見ている夕日の話だった。そこにどんな意味があるのかなんてわからない。ただ少女は陳腐だと思う。陳腐だと思うこと自体が陳腐であるかのように、「なんだちんぷって へんな音」と少女は呟く。
 本当のことを話すのは、案外難しいものである。物語で登場人物の言動に全て動機付けするのは可能かもしれないが、その理由が言葉になったとき、読者は陳腐だと思う。でも全く説明がないと、今度は不安や不快感を覚える。わけがわからないと嫌になる。「やさしいからだ」は、そんな作品でもある。陳腐を出来るだけ拒んだ結果が、わけがわからない部分を生んでいる。それでも3巻の各編は、あえて陳腐な表現を選んでいる(もちろん、本作全体の中で相対的に陳腐というだけで、よくわからない部分がないわけではない)。
 「美保弥生」編は2巻ラストの「美保五月」との繋がりで、五月の妹・弥生が主人公であり、また「そら」という弥生の息子の名前繋がりで、登場人物の名前にも意味が与えられいる。そこを踏まえると本編も少しは氷解するだろう。
 冒頭保健室にやってくる弥生、勢いよく来たものの、扉の前で一瞬躊躇する手付きを見せる、で室内に明るく元気よく入っていくと、すでに先客がいた。この時から、彼女は先客の月世の後を追うような人生を意識し始める。月世は、少なくとも弥生にとっては確かな自分をもっていると思われる存在である。誰の影響も受けずに生きている。保健室で彼女に会ったとき、弥生は月世の真似をしたわけではないのに、そのような錯覚を感じたのだろう。人の物真似をよくする月世の真意を知った・というよりも、18頁の弥生の「バカにされている」という思い込みが、決定的に彼女の人生をからっぽにしてしまうわけで、実に恐ろしい瞬間なのだが、序盤はそれを抑えて時間軸をずらすことであいまいに描写する。中学時代に誰ともつるまない月世の態度を、高校時代になってから真似する彼女は、月世が木の葉っぱを摘んで何かにふけっているように、どこかの家のつるを引っ張ってぶちぶち引っ張ってしまう。とても月世のような余裕がない自分に、こんなはずではないという苛立ちがあったことだろう。月世は憧れであると同時に憎らしくもあり、自己撞着が弥生の不安を募っていく。予備校で思わぬ再会を果たした弥生と月世だが、弥生は月世の態度をどんどん真似て取り込んでいく一方で、彼女と離れたいという感情も肥大していき、ますます不安になっていく。この不安が、とても生々しくて、私にとっては恐ろしいのである。憧れの人の真似をしても、憧れの人と同じ栄誉を得られるわけではない(数学の授業で私を褒めてください、というのも、予備校で数学の出来を褒められた月世を受けての場面である)。
 進学して月世と離れられることになったとき、彼女は喜びを感じながらも、月世がいなければ何も出来ない・何も目指せない自分を痛感してしまう。ちょっとくらい説明調のモノローグがあってもいいものだが、そんなものはない。弥生の表情と遠くに去っていく電車が、彼女の今後の行く末を暗示している。
 作者は、他人を重視する、脇役ではない。作品の中で描かれる主人公以外の人物は全て他人なのである。だかせ素っ気無いし主人公の心境も解説しないし、物語に影響もない。けど、他人がいてはじめて主人公は際立っていく。他人との関わりが個人の輪郭をあらわにする。だから他人の真似は決して恥ずかしいことではない。だけど幼い弥生はそれを理解できない。明るく他人と接していれば他人は刃を向けない・むしろ優しく受け止めてくれる(それを知っているからこその冒頭の戸惑いと活発な言動である)。月世に笑い声や話し方を真似されたとき、陳腐にするなら月世の語りがあってもおかしくはないだろう、別に悪意はないという月世の思いがあれば、読者は弥生を一人の少女の成長譚として眺めることが出来る。だが、作者は主人公しか描かないから、脇役と相対化できない結果、主人公は読者と相対化されざるを得ない。ここが気持ち悪くもあり不愉快でもある。22頁で交錯させてた足を真っ直ぐにするのも、この間に月世のそんな仕草をひとコマ挟んでおけばいいのにしない。ひどくぶっきら棒な演出でもある。けれど、一度弥生の感情が理解できると、全ての物語がわかったーと言いたい快感もあり、これがたまらなく面白い(当然、その理解したという感覚そのものも作者同様に独りよがりなものであり、それを許容できる懐の深さが本作の魅力である)。
 社会人になっても弥生は月世の残影を追っていた(右耳のピアスがわかりやすい)。で、同僚の男性(彼の名前が太陽の「陽」であることから、月世の「月」と対照を成しているのが察せられよう。この辺が陳腐といえば陳腐)に声をかけられ、食事に誘う好機とみるも、ボロボロの靴に気付いて、多分一緒に歩けないとでも思ったのだろうか。でもまあ彼と付き合ってプロポーズされたところで、ようやっと弥生の本音が語られる。本音を言える相手が現れたことで、これまではっきりしていなかった弥生の言動が言葉で解説される。やはり他人がいないと自分は成立しないんだ。
 他人との関わり合いを考えれば、次の「音羽晴」編、「野田菊」編、「野田舞衣子」編の各編を独自に理解できるかもしれない。まあ理解しなくてもそれはそれで全然ありなんだけど。
 さてしかし「最終話」である。「最終話」は全編中一等明快で一話として完結している佳作である。数々のわかりにくい描写は一体なんだったんだろうというくらいの瞭然とした主題を掲げつつも、やはり安永知澄は期待を裏切っていく。他人との些細な関係で傷付いたり傷付けられたりしていたこれまでの話を、まず否定する設定から物語が始まる。互いに傷付けようがない・全身を羊水で覆われたスーツを着用することで汚染された外界から身を守っている人々の世界で生きる少年と少女の淡い関係。少女を求める少年、自分の世界に閉じこもっていく少女。少女に迫る少年の行為は、他人との関わりを強く求める意思である一方、傍目には・少女には暴力でしかない。抱き合ったとしても、スーツ越しの温もりは羊水の暖かさでしかない。羊水から脱して全裸で求め合う二人を夢想する少年。全編を象徴するような物語であるが、ラストで裏切りの正体を知り、私は呆然とした。
 羊水を取り替える部屋に二人は入る。生身に触れ合うにはこれしかない。少年の強引な誘いに応じるものの、少女は「こわい」と何度も言う。本物の体温を感じるには触れ合って傷付けあうしかないという現実が待ち構えていた。二人の肌は溶けそうなくらいドロドロなのだ。溶け合ってしまえば、その温もりは自分のものか相手のものか境界がなくなってしまう。ぼんやりしているのだ。少年が夢見た喜びとは程遠い、互いに拒もうとする身体があるだけなのだ。傷付けあわなければ確認できない他人、他人と接するということは、私たちが想像する以上に過酷で不安に満ちたものなのである。
 とまあわかったような気がしたところで、所詮は身勝手な思い込みに過ぎない。そんな自覚をしてないと、野田菊のラストの衝撃のように嘲笑われてしまうことだろう。

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