「ヤサシイワタシ」

講談社 アフタヌーンKC 全2巻

ひぐちアサ


 ひぐちアサ。何が良いって景色と人物の描写を心得ているところだ。背景の風景だけを取り出すと、どうってことのない写真みたいな印象なんだけど、作者本人が描いているか否かは別として、人物の描線との齟齬があまり感じないのである。デビュー作「ゆくところ」でも唐突な景色だけのコマがあって、劇中にどんな効果があるのか計算していないような構成で、本作品もそんな場面がぽちぽち見受けられるけれども、構成自体が人物二人の会話を軸としているから、かえって閉塞感が解かれるのだから、作者の妙な癖だ。人物のいないカットにどんな意味があるのかって考えると、ひぐちアサ作品の味わい方もちょっと変わるかもしれないし、長所短所が浮き彫りになると思う。
 1巻23頁はヤエとヒロタカが会話しながらどこぞへ歩いていくところだが、最後のコマは二人が今いる場所なのか、これから向かう場所なのかすでに通り過ぎた場所なのかわからない。普通に捉えれば今いる場所・これから向かう場所ってことになるんだけど、それがわからないから、読んでいてちょっと人物の位置が混乱してしまうことがある。次頁で二人が通り過ぎた場所だとわかるけど、また単に人物を描かなかっただけで、その会話のときは二人がそこにいたとも読み取れるわけで、校内の描写全体を通していえることだが、登場人物たちが今どこで何をしているのか、これが掴めないのが厳しいのである。作者の頭の中には校内の見取り図がくっきりと見えるんだろうけど、この作品、校門から写真部までの道のりが全然読者にわからないのである。読み進めていけば写真部部室の位置はなんとなくわかるんだけど(といっても四階にあるってくらいだけど)、何が問題かって、二人が別れるきっかけになる車椅子の子の入部問題なのである。
 とても戸惑った。ヤエの「ギゼン的」という発言の意味にあるものもよくわからない。展開の都合として二人の関係に亀裂を加えたい作者の考えた・そのきっかけがこれなんである。車椅子でここまで来られれば別に問題ないでしょ、というのが正直な感想。思わず劇に没頭してヒロタカと同調してしまった。だからといって、これが作者の巧みな構成による結果でないことは自明で、だって介助者ついて四階まで来ている事実が言及されていないから、ちょいと首をかしげたのである。何言ってんだ、ヤエと作者はって。つまり、前半の主要舞台である写真部が作品世界のどこに位置しているかをきっちり書いておけば車椅子による移動の困難さを想起できるわけで、読者連中はヤエ派・ヒロタカ派に分かれて感情移入たっぷりに作品世界を語れたと思うのだ。でもそういう世界観・舞台設定の描写の積み重ねが足りないために、ここではヤエの言動がひと際変な印象を与えてしまう(というか、私は感じた)。
 さてしかし、この作品の肝がそんなとこにないのもまた明らかで、見所は対話なのである。その内容の優劣・賛否は問題ではなく、登場人物の性格が自ずとにじみ出てきて、次第に人物の言葉が色分けできるようになり、非常に生々しい会話が成立してしまったのだ。ヤエとヒロタカの対話は言うまでもない、他に安芸の潔癖なところ・新条の暴力話の告白・なんとなく山脇といった登場人物個々の肉付けって厚みはない(人生を感じないけど)けど、傍目に普通の大学生をきっちり描いている点に好感を持つ。画面埋めているだけじゃなくて、それぞれ意味を持った配役ということ。それがはっきりする場面が2巻113〜118頁、人物の描写はしっかりと積み重ねているから、安芸の締めの言葉も納得なわけだ。
 では物語前半、最も中心となっていたヤエとヒロタカの台詞はどうだったかというと、ここでも私の視点は言葉より背景に向いてしまった。2巻74頁以降の海を控えた二人の会話の場所の環境の描き方が上手いね。風である。夕刻、海風と陸風が行き交う地点。ヤエの髪がそよぐ様が絶品なのだ。もともと作者って人物の髪型をしっかり描いていて、2巻冒頭のヤエと妹の場面にしろ続く澄緒のボサボサ具合にしろ、生きているんだよな。安芸の性格も髪形にそのまま反映されている、毛が乱れていないのね。また2巻177頁の澄緒は次頁以降で風呂上りのしっとり具合もちゃんと描かれ、部屋に戻って186頁くらいからすっかり乾燥してのだろう、またちらほらと一本二本と髪の毛が立ち始めるという細かさ。で、74頁以降に戻ってヤエの髪型だけ追ってみると、実に多様、全然固まっていない。この作品に躍動感に欠けるきらいがある理由が、あまり変化のない一対一の会話によるところが大きいのだけど、よーく見れば時間経過は当然のこととして周りの空気の変化も捉えながら描いているのである。77頁の3段目、空を挟んでヤエの髪の変化だけ描いて心理を表現しようとしている(らしい)。
 それだけではない。恥ずかしかろうが痛かろうが、劇中の二人の会話は時間と場所を越えて線でなってつながっているのだ。わかりやすい例が1巻196頁と2巻86頁、ここだけ取り出して読めば意味は明瞭だろう。引用しておく、ヤエ「やれると思ってやれなかったこと、あるでしょ?」、ヒロタカ「いいことをいいって言っちゃってやり始めるしかないです」となり、その後の展開には驚愕してしまったが、ヤエの位置を継ぐ澄緒(このキャラも序盤からちらほらと登場させていればよかったのになー)との対話(2巻211頁〜)でヒロタカは、ヤエと話していたときの心中を告白し、先ほど引用した言葉の意味が終盤になって結ばれるという構成は、正直わかりにくい。けれども、細かな描写だけでなく台詞の必然性というものも考えてしっかり描かれているわけで、安易な展開(ヤエの退場のこと)ではないのである。作者もあとがきで書いているが、ヤエの言動に苛立って途中で読み止めた人、今からでも遅くないので読みなさい。
 といってこの作品を傑作だとか名作だとかは思えないのは、やはり少々無理な構成が原因だろう、しかも唸るような表現がない、個人的に風の描写・髪型の描写に触れたけど、それはあくまでも物語の中心ではないから。またさらに個人的に残念というか惜しいのが弓為の存在である。序盤からキーマンっぽい位置でヤエとヒロタカを見守っていながら、最後まで物語の核心に突っ込みきれないからである。澄緒より弓為でしょ、断然に。ヤエの親友であり、ヒロタカの姉的存在。これほどのキャラを最後まで脇においておく作者の物語作りは容赦ないねェ。


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