「淀川ベルトコンベア・ガール」

小学館 ビッグコミックス 全3巻

村上かつら



 2011年のマンガ界を考えたとき、いや、それに限った話ではないが、物語をつむぐ上でどうしても避けられないのが東日本大震災なのは当然である。2001年の9.11でアメリカンコミックスを取り巻くヒーロー物が大きく様変わりしたように、3.11によって日本のマンガも大きな変容を遂げるだろう。もちろん作品が描く世界によりけりなわけで、全てというわけではない。映画については2012年からその影響は出てくるだろうが、時間的に時事ネタを素早く取り入れやすいマンガというメディアは、大震災によって何らかの影響があるはずだ。村上かつら「淀川ベルトコンベア・ガール」もその一つである。
 もともとは2003年に短期連載された「純粋あげ工場」(「CUE」3巻に収載)を下敷きに、「月刊スピリッツ」にて2009年から2年間連載された作品である。16歳で福井から大阪の食品工場に住み込みで働きに来た女の子・かよを主人公に、工場のおばさんたちや同年代の女の子との交流を通した成長物語、あらすじだけを取り出せば非常に平凡な物語である。もちろん16歳で働かざるを得ないという事情は特殊かもしれないし、同年代の子たちが高校生と言う状況下で孤独感に悩む彼女の姿は、少し痛々しいところも含んでいる。「友達が欲しい」という願望はもっともだが、それを前面に出されると、かよに友達になって欲しい視線を迫られる子にとってはうっとうしいだろうとも思える。バイトで入ってきた女の子・那子と仲良くなろうと必死にもがく姿は滑稽ですらあった。姉さん格の同僚は第一話で、那子との出会いを、かよの世界を工場の外に拡げるきっかけになればいいと語る。
 工場とその寮の往復の日々は一見退屈だ。かよは毎日決まった時間に川沿いの土手を歩くのだが、そのときにすれ違う高校生たちの華やかさにひそかに憧れているわけだが、高校生にとって見れば、かよ同様に家と学校の往復の日々なのである。世界は違えど、置かれている状況は似たようなものなのだ。そんな閉塞感からの脱却が、この作品に込められた願いだった。
 何故願いなのか。それは、どんなに努力しても逃れることが出来ないとわかっているからである。村上はあとがきで語った。
「主人公を取り巻く状況は、おそらくこの先も変わらない(好転しない)。」
 この諦念が閉塞感を象徴していた。どんなに素晴らしい未来を物語として提示しても、所詮は絵空事でしかない。かよの実家は裁縫店で、彼女自身にもその才能がある、その方向から輝かしい未来に向かって羽ばたいていく彼女をラストシーンに据えることも出来ただろうに、村上は最初からそんな着地点は考えていなかったのである。村上は、これを「勝ち目のない戦」と呼んだ。
 作者でさえこのような現実を感じていたのだから、物語がどこか窮屈なままなのは致し方ないだろう。かよが友達が欲しいと悩むように、那子もまた、心から本音を言える友達が欲しいという気持ちが浮き彫りになってくるのだから、二人が仲良くなっていくのは自然だ。那子の同級生との葛藤や、かよを巡る状況の変化・時代の閉塞感として工場の規模縮小という現実的な展開により、物語は終わりの気配を予感させながら、彼女たちの別離も描こうとするのである。勝ち目はないけれども、せめて負けない戦をしよう……
 さてしかし、彼女たちは一体何と戦っているのだろうか?
 村上は自身のブログで2010年の私的ベスト10に入る傑作映画として「SR(サイタマノラッパー)2 女子ラッパー傷だらけのライム」を挙げている。
 「SR」「SR2」そして昨年の「劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ」を監督した入江悠は、どの作品でも一貫してキャラクターを逃れがたい閉塞状況に追い込んでいる。田舎で生きざるを得ない若者たちを描いた「SR」は、一方で東京に行く仲間を描きながらも、それさえ出来ない主人公の惨めな姿を容赦なくカメラに捉える。ラッパーと粋がったところで誰からも支持されず馬鹿にされる日々だった。だが、そんな窮屈で退屈な生活に陥って初めて彼等は心の底に淀む感情をラップで刻み込めたのである。「SR2」では、ラップと言えば男性というイメージを女性5人グループで払拭し、唯一のステージが文化祭のラップしかなかった彼女たちが8年後、再び、このくそ田舎でどうにかこうにか生きていこうとする必死にもがく姿そのものが実はラッパーなのかもしれない。悲壮感と同時にあるラップとして輝く言葉に、自身が感じていた閉塞感に負けない方策を見出していたのかもしれない。
 震災を経た村上は、当初予定していたネームを残り4話という段階で一から描き直したという。おそらく予定されていたラストは「純粋あげ工場」同様に、友達との別れと主人公の些細な成長を描いてさっぱりと終わり淀川の景色も変化はないだろう。どんなにさみしいさみしいと孤独の中でもがいていようとも、そんなことで状況が変わるわけではない。まずは行動するところから、と自分だけが得心して終わっていたのかもしれない。
 だが変更されたというラストを読んでみても、全く違和を感じなかった。もともと主人公のかよの設定に込められていた閉塞感なんてものは気の迷いに過ぎなかったのではないか? 実家である裁縫店の閉店に工場の縮小という追い詰められた感が、かえって彼女に開き直りのような閃きをもたらしたのである。「SR2」で自分の生き様をラップで表現した彼女たちのような清々しさと同時に、明るい未来を予感させるのである。「勝ち目のない戦」そのものが幻想だったのではないだろうか。
「友達が欲しい」「さみしい」と自分のことだけしか考えていなかったかよは、那子のことを考えて祈った、服を着る人のことを考えて洋服を編んだ。小さな成長かもしれないけれども、かよにとっては、大きな前進であることに間違いはない。かよの願いは、かよの将来に大きく広がる未来へと続き、淀川の流れとして彼女の笑顔に収斂した、爽やかなラストとなった。願いは手応えのある希望へと変化したのだ。
 では、作者が作品自体に込めた思いはなんだろうか。物語の冒頭の淀川沿いの景色とその一年後のラストの景色は、どちらも同じ季節の同じ角度から眺めた見開きの風景である。その土手をうつむいて歩くかよと、上を向いて川沿いの風を気持ちよさそうに受けながら歩くかよ、この対比だけでも十分なのだが、川沿いの景色そのものにも大きな変化が描かれているのである。
 冒頭の川沿いは、かよの心象風景に合わさるように寂しげだった。半分しおれたような樹木にトタン屋根の小屋、そこにつながれた犬、どんよりした川の色……誇張もあるだろうけれども、殺風景だった。それがラストの景色は装いが全然異なるのである。かよの気持ちがそのまま景色に表れたというにはあまりにも無理がある大きな変化である。
 色づいた草、映える樹木、きらめく川面、トタン屋根の小屋はなくなり、花を咲かせた草木が風に揺れ、道端にはタンポポらしき花もある。冒頭では対岸に小さく描かれていたビル群も、ラストで大きく描かれた。かよの成長だけにとどまらず、この美しい風景に、作者自身の希望が託されているように思えてならない。
(2012.1.5)

戻る