東村アキコ「雪花の虎」2巻

小学館 ビックコミックス ヒバナ

リアルなき血



 2002年公開の映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」は、クレヨンしんちゃんシリーズの中でも傑作として「オトナ帝国の逆襲」と並び評される作品である。しんちゃん一家が戦国時代にタイムスリップして繰り広げる大騒動の一方、念入りに下調べが施された合戦シーンは専門家も感嘆するほどに、戦国時代のリアルを描いていた。
 それに対する批判も実はある。しんちゃんシリーズを通して、ただこれ一本だけが人の死を直接描いているからだ。合戦シーンでこそ直接描かれることはなく生々しい表現こそ避けられてはいるが、倒れる兵士が描かれているのだ。また、しんちゃんが仲良しになる武将・井尻又兵衛が物語の終盤で狙撃されて息を引き取るシーンではしんちゃんが大粒の涙を流すという子ども向けアニメという体裁を取っ払い、映画とし完結させたことに、成長しないキャラクターであるしんちゃんが、否が応でも成長してしまうことに抵抗を感じないと言えば嘘になる。もちろん、ドラえもん映画も毎回のび太は成長するがテレビ版では元通りというのが当然の世界ではあるのだけれども、自分自身、又兵衛の死は、合戦シーンのリアルも相まって、しんちゃんと同様に感極まった覚えがある。
 さて、東村アキコ「雪花の虎」は、上杉謙信が女性だったという説を惜しげもなく前面に出した戦国時代を描いた物語である。時折描かれる作者自身の解説は個人的にうるさくて邪魔臭くはあるが、やはり上杉謙信という無敗の武将の生涯はそれだけで魅力的であり物語として面白いに決まっているし、女性の人生としてどのように描くのかという興味もあって読んでいるのだが、2巻の初陣となる合戦場面で、大きな違和を感じざるを得なかった。主人公の景虎の描写である。あまりに美しく描こうとするあまりに物語としての美しくさを損ねているのだ。
 景虎が育った越後は元から国人衆の独立心が旺盛で一揆めいた反乱に事欠かない地域である。景虎の父・為景がその平定のために生涯を捧げたことは1巻でも描かれていた。家督を継いだ兄・晴景が戦を好まない様も解説されている。心優しい兄、後に景勝を生む姉、そして景虎。女に生まれながら為景の意志によって武将としての教育を受けることになった景虎の幼少期から少女に至る過程において、伝聞を交えながら彼女の武将としての資質は十分に感じられる展開である。実際、謙信になるのだ。
 ところでしかし、男性だった人物が実は女性だったという物語において、初潮は、キャラクターを女性として強く認識させる契機としてよく描かれる挿話であろう。「雪花の虎」も例外なく、この出来事をコメディ交じりで描写した。
 もちろん読者は彼女が少女であり、いずれその日を迎えることはわかりきっているのだから、血を見て右往左往する様子を見守ることができよう。
 だが、彼女自身から流れた血こそ、人を斬る前に彼女が接した最初のリアルな人間の血である。もっとも、物語としては陳腐になるが、戦に明け暮れていた父が血に塗れた姿を子に見せることもなく、優しい男として死んでいく様子は物足りず、一場面でも景虎に戦で何が起きているのかを知らしめる恐怖をこそ与えるべきではなかったか。
 そんなきれいな幼少期を過ごした彼女が自ら流れる血に慄くのも無理はなく、これではまるでお姫様のようだが、ともかく景虎は、後に上杉氏の菩提寺となる林泉寺の僧侶・彼女の師匠ともいえる宗謙に泣きついた。宗謙は若年時、赤子を生む女性に出くわした挿話を語り聞かせた。女性は赤子を生むために腹にたくさんの血を抱えている。女は男より強い、男より男らしく生きよ、と。
 女となったことで、景虎の描写も艶っぽく描かれることになった。腹痛から恢復して起き上がった彼女の描写からしてすでに、それまでの少年らしい表情が薄くなっている。総髪から垂れた前髪が効果的に彼女の顔色を女性っぽく演出した。特に目が一等わかりやすい変化だろう。まん丸っぽい目が、切れ長っぽい目になる。男より男らしく、という至言を得て女性のように顔立ちが描かれた。女として生きていく決意の表れである。
 初陣となる栃尾城の戦いでは、城に集まった者たちに女であることを包み隠すことなく振る舞い、カッコいい姫武将然と城の女性たちの憧憬を集める。腹心としてキャラクター設定された本庄実乃(この辺を誰にするのかってのも歴史物の楽しみではある。上杉氏なら直江氏や宇佐美氏がいるけれども、景虎の初陣から従ったという点に鑑み、本庄氏を選んだのだろう)は、けれども男として戦に臨んでほしいと訴えた。
 景虎が戦場で活躍するだろう様は容易に想像できる。小さなころからの山を駆け回り、物語の冒頭から仕留めた兎をつかみ持ってくるし、弓の練習でもその腕前は披露されていた。寺で六韜を読むなどの描写もあれば、三十六計の第一計を引用しつつ采配した夜襲の策略も納得である。周到に幼少時代を描いてきたからこそ発揮された武将としての景虎の机上の戦術だが、戦場はまた別の怖さがあるはずである。
 戦で人を殺す、ということに対する当時の価値観を現代の私の個人的な心情で推し量るというのも無茶ではあるけれども、馬上から斬りつけたと思しき場面の手触りのなさが、とても気になった。あれだけ作者の解説を織り交ぜた物語でありながら、こと人間の感情の描写として重要な初めての戦における淡白な剣戟、カッコ良さだけを描いた見開きは血塗れの本庄たちに対して、きれいに描かれる女性としての美しさを引き立てようとするあまりに、かえって合戦のリアルを損ねているように思えてならない。
 本編の解説で執拗に繰り返される謙信女性説の根拠は、その信憑性はともかくとして、あまりにも物語の軸を歪めていよう。戦場の謙信の颯爽とした姿は今後も描かれ、その都度、彼女が女性として男性に負けない様子が強調されて描かれることだろうが、そうなればなるほど、男性として描くことと結果的に大差ない・性別を変えただけの展開に陥る危険もある。当面の見どころとしては、この後描かれることは間違いない黒田秀忠は1巻ですでに名前だけ登場しており、謙信の名を決定的にし兄の立場を窮屈に追い込む黒田の叛乱をどう描くだろう。
 物語としては、並行して描かれた武田晴信の初陣やクーデターによる家督簒奪と対照させることで、正反対の二人がやがて川中島で熾烈な戦いを繰り広げる展開も期待でき、第四次川中島の戦いの伝説ともいえる謙信の単身突入による晴信との一騎打ちは、さぞや劇的に物語を盛り上げるに違いない。女性としてのカッコよさはこれからも積み重ねられ、その場面は頂点となるかもしれない。しかし、女性説に囚われ、拘り続ける今の展開は、やがて謙信自身が目指していたと言われる第一義(釈迦が問う万物の真理)から大きく逸れていく結果になるだろう。
 曰く、わけへだて、とらわれ、こだわりなき心にやすらぎがある。
 もっとも、そこまでの展開はまだまだ先のことであるし、作者自身いつまでも謙信にとらわれることなく、物語の完結にこだわらず、ほかの連載作に分け隔てな注力すれば、この作品そのものが中途で投げ出される可能性のほうが高い。
 戦国時代のリアルではなく女性として戦国時代を生きたリアルを描く限り、戦で死んでいった者たちに対する謙信の心情は、おそらく宗謙の物語に収斂されてしまうのだろう。彼女が戦場のリアルを肌で感じたとき、大粒の涙を流して泣くのだろうか。あるいは、凛然と美しさを引き立てるだけの小道具になってしまうのだろうか。
 景虎の物語は、まだ始まったばかりである。

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