「ゆくところ」

講談社 アフタヌーンKC

ひぐちアサ



 不思議な漫画だ。という言い方は甚だあやふやだが、そうとしか言えない作品である。
 ひぐちアサのデビュー作「ゆくところ」はホモの小泉と小児まひで右手右足不随の湊、二人の高校生が繰り広げるぎこちない友情(愛情)物語である。構図はたまに破綻するし物語に大きな起伏もなく、まるで都内の単館のみでひっそり上映されて隠れた名作にもならず、それでありながら嫌いにはなれず人に薦めることは決してないがなんとなく好きな日本映画のような、奇妙なたたずまいを備えている。まったくもってはっきりとどこが良いのか言えない自分に苛立ってしまうけれども。しつこく日本映画にたとえれば、主演の二人のうち一人はこれ一作の出演のまま消えて一人がなんとなくたまに脇役に出てくる・しかも映画のみの出演で……というような空想にのめり込むほど地味な漫画である。
 驚くのはこれを描いて投稿してしまう作者の無謀さ以上に、それを拾ってしまうアフタヌーン編集者である。拾ってくれたからこそ、私は凋落著しい日本映画のなかでさらに売れない映画の匂いに酔うことが出来るわけだが。良い意味で読者を無視した構成。あとがきで「スキホーダイ」描いたというのがよくわかる構図も多々あり。たとえば、165頁、小泉の告白場面なんだけど、上段3コマの沈黙の下段に町中の景色がどーんと入る、あれ、二人はそのまま街に繰り出したのかと思ったら違うからこける。これだけの景色を描いた意味は? と考えると見当がつかない。ここは小泉がやや落ち込むところだから、喧騒の中で一人しょぼんとしている彼をこのコマの真ん中に小さく描き込むだけでも充分にそれが伝わるんだけど……次の展開で逆に落ち込むのは小泉の女(男ね)の方だから、小泉の気持ちが軽薄に映ってしまう……と思うのだが、後半の展開を見ると、湊は彼の思いを本気に受け取っていないから、作者は湊の立場でここを描いていたようだ。この齟齬の原因は、どちらにも重きを置かずに描いているという点が大きい。主人公は二人なのである。二人同時に二人の内面を描こうとしている節がある、だから時折構図が崩れて、中心が気がついたら小泉あるいは湊に傾いていて、それでも話が頭に入ってくるのであるからして不思議という所以。この不思議の解明は宿題だな……
 もうひとつの不思議。それが景色の多さ。それほど描き込むような印象はないし、事実180〜181頁の会話場面にはひとコマを除いて背景なし、二人の立ち位置もばらばらで演出している気配がない。セリフだけを読んでいるだけで足りるからそれで構わないのだが、次の頁あたりからの町中の背景はきっちりと描いている。これはつまり、作者は外の景観にたいそうな関心があるということだろうか。二人の会話のあとの191頁3コマ目の河岸、ここはそこを二人が歩いている場面に自然に移るので、前述の含みで本気で構成に気を遣っているのだろうか……という疑念は置いといて、この景色の使い方がよい。惜しむらくは、二人を橋まで歩かせて、橋上の視点からさらに河を描けば、深い意味はないけど映画っぽい雰囲気は出るんだよな(古臭いかもしれんが……)。
 「家族のそれから」でもなく「ヤサシイワタシ」でもない、私が何故ひぐちアサの作品からこれを選んだのかが、風景の多さ、そして世界の広さである。前記の作品のなんという狭い世界か。特に「ヤサシイワタシ」は閉じた空間でホレタハレタやってて窮屈この上ない、作者としては自分の土俵の中だけで漫画が描ければ簡単だし楽しいだろうが、それではいずれ読者の息さえ詰まらせてしまいかねない。一方の「ゆくところ」には、小泉の設定が幸いして異世界の人間も登場して奥行きある物語として成功しているのだ。また、私がこの作品に惹かれた理由は、「カッテ」に描いただけあって奔放な画面が、それまで見せていた稚拙な構図を忘れさせるほどに迫力あるのである。196頁の湊、229頁の小泉、それぞれの回想が唐突に挿入される。この間が絶妙で、読者に様々な想像を促しやすい暗喩と化し、作者曰く「ワタシのマンガはワタシだけのモノですが、読む人は、その人だけのモノを構築する」という実感に繋がり、補足すれば、それが印象に残る作品・消費されず大切にされる作品になるのだ。さらにまた、225頁にまいった。小泉が内心怯えている様子を描ききってしまったのである。表情もセリフもなしに。次の3頁を切って「おやこのカエル」に進めて、次に小泉のアップ(228頁1コマ)という構成ならば(言うまでもないが個人的に)一層小泉の内面が強調できたと思う、すなわち父を憎みながら自分が父と同じ体質になっていることに絶望しかけたところを目の前の湊に救われてやっと父を許せる心を得る……とい感動的場面が劇的に展開されたところなのに、茶化してしまうところがドラマ作りに徹しきれない作者の未成熟なところなのだろう。
 作者はあくまで監督として出演者に感情移入することなく、作品世界に酔いしれることなく、演出に冷酷なくらいに徹しきってほしい。さもないと、ほんとに忘れ去られてしまうよ、幾多の映画と同じように……

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