「夕凪の街」

双葉社

こうの史代



 死体を踏み越えて生きているという感じ。22頁目の衝撃が頭から離れない。徐々に鮮明になっていく当時の記憶・積み重ねが素晴らしいからだろう。1コマの挿入から主人公・皆実が感じている街の人々への不自然さが読者に突きつけられると、言葉を失う。10年前の破壊の傷跡を身体に残す人々、記憶は刻印され永久に消えない。ただそれだで、圧倒的な表現力をこの作品は演出している。30頁、必読である。
 冒頭の和やかさが、わずか数頁後に奇妙な重さとなって読者の頭にのしかかってくる。復興が進む一方でいまだに貧窮に沈む家並みの対比、横から見ればバスが走り車が走り子供達が駆け回る穏やかな街も、少し上から眺めれば途端に火傷の跡をさらす。戦後都市部ではありふれていただろう集落の中にも商う人はいて、子供達はやはり笑っていたし、呆けた年寄りもいた。皆実が会社から帰宅する道中の描写だけで、歴史的世間的に注目された運動の外で、日々を生きている・生き残った人のやりきれない思いが、画面にじっとりと滲んでいく。
 疎開先で養子に出された弟への思慕や、同僚の男性との淡い恋といった描写と皆実の飄々とした立ち居振る舞い、ひいては作者の筆致によって、地味だけどほのぼのした印象が目の前に広がった矢先に、14頁6コマ目、この小さなひとコマが先ほどのやりきれなさと言うか、言葉にならない感情を引き出し、かつて悲劇に見舞われた街という客観視が俄かに今もなお続いているのだという皆実の独白に接近する。
 鳥肌が立つ思いだった。銭湯で身体を洗う人々、ごくらくごくらくと言って湯船につかる母の次に、またしても熱風に焼け爛れた人たちの絵が挟まれる。この急展開にぞっとしたのだ。予兆はその前から描写されていた(みどりちゃん)が、それは中盤に明かされるわけで、序盤の・10頁ほどの間に揺すぶられた私の感覚は、これだけでもうかつて経験したことのない暴力的なものだった。それは私がこの10年の世間の有様への違和感をわずか2時間で解説してくれた森達也のドキュメンタリー映画「A」に並ぶ衝撃に近い、いやその密度は本作の10頁がとても濃いわけだから、なんかもう真面目に震えてしまった。そして主人公の長い独白、あの事をわけがわからない、と語るのは実際体験者の生の声に近いだろう。わけもわからず災禍に見舞われ、自分が死んだことすら気付かず一瞬にして消えていった人々、生き残ってもなお火傷にもがき苦しんで水を求め、求めて這い回り、川の中に落ちていく。「死ねばいい」と誰かに思われたことを確信している皆実の台詞に、またしても衝撃を受け、私は読みながら立ち往生してしまう。これだけで戦争を描かずに戦争描写を読んだ気になってしまう。静けさの中に着実に根付いて離れない死んでいった人々のわけのわからないという思いは後に具現化し、お前もこっちへ来いと招き寄せる手になるのだが、その前に22頁である。
 むちゃくちゃ怖いんですけど、これ。平穏な日常と同居する体験者の当時の記憶ってのが、その前の2コマの仕込みで読者は知っているんだけど、こんな状況で私は普通に生きちゃいけないと感じてしまう一女性の思いの強烈さに愕然とした。24頁の構図がまたそれを煽る。死の淵に落ちないで必死に走る彼女、やがて死に慣れ、川岸に座り込むと独白は棒読みのような平坦な調子になり、火傷を負った左腕を差し出して、10年経っても解放されない彼女の現実が凄まじい。激しい筆力ではないだけに、やさしい線が違和感というか悲愴感を増す。まだ戦っている、現場を見たものだけが、「死ねばいい」と思った人とまだ戦っている。同じ体験者でありながら、銭湯で違う反応を見せた母と娘(母の思いは続編「桜の国」で語られはするけど)の理由がここでわかる。で、27頁で私はようやく・なんとなくだけど彼女が感じてきた「忘れればいい」という言葉の真意を感じる。
 そんな当時は知らないし知ったと言っても知識でしかないほとんどの人にとって、理不尽な死に接した記憶ってもんは、トラウマなんていう流行り言葉では片付けられない・ひと括りにしてほしくない感覚があって、でも専門家とかネット上で物知り顔で世間を語る人とかなんかは平気で無責任に断じたり憶測してしまうわけで、軽率な私ら部外者は、では一体全体どうすりゃいいんでしょという居直りに対し、この作品は同僚の男性との短いふれあいを通して、簡潔に述べる。救われたような気がして、ほっとした。けどそれさえも束の間に過ぎないという現実。
 本作は生易しい読後感を与えてはくれない。後半、同僚の言葉で少し解放されたかに見えた彼女は、すでにあの黒い手によって絡め取られ、否応なしに仲間になれと呼びかけられる。14コマに渡る白い死線、症状が悪化した果てに失明した彼女は、ただ想いだけでほんの少し生きる。何もない空間だけど、読者は読む、何もない空間に皆実の思いを感じる。そして、この空間には読者それぞれが思い描いた感情が描かれる。直接的な描写かもしれない、戦争映画の一場面かもしれない、作者の主張を想像するかもしれない。
 偶然だが、同時期に読んだ田中ユタカ「愛人[AI-REN]」の最終巻は主人公の死に際の独白を真っ黒なコマの連続で描写していて、表現の違いが面白いと感じてしまった。何も見えない状況から音だけが聞こえる世界と同時に主人公の感情を黒で描いた田中氏に対し、こうの氏は似たような状況を白で描いた。前者は、白抜き文字が鮮明で印象深く、言葉が鮮烈に脳裡に残るけれども、余白のない描写は読者の入り込む隙を拒んでいる。この効果は結果的に壮絶な孤独・読者さえ寄せ付けない絶望の中でなおも微笑んでいたという証言によって主人公の力強さを焼き付ける。一方後者は多くの余白でもって読者の感情を受け入れる、それにより作品の多様な解釈を可能にした。どちらが優れているとかではなく、注目すべきはその後の描写、風である。
 風が……吹いた……
 ああ 風……
 泣きはしない。なんか一時の感傷で済んでしまいそうで泣いてはならないような気がした。
 34頁、ラスト2コマは誰の言葉だろうか。作者の言葉? 皆実の言葉? 誰の思いであるにせよ、私らの隣には常に死体が横たわっていて、みんな知らずに踏みつけているのかもしれず、なんか奇蹟だな。

戻る