「高校球児ザワさん」1〜2巻

小学館 BIG SPIRITS COMICS SPECIAL

三島衛里子



 水島新司「野球狂の詩」と言えば、水原勇気という女性投手がプロ野球界で活躍するという印象が強い。私は少し読んだだけだったが、謎の変化球やらなにやら相変わらずな疑惑のオンパレードという展開で、御大らしいなぁと楽しく読んだものだが、野球をする女性というものは、それだけで魅力的な存在になってしまうということなのだろうか。水原は、主人公然と劇中を渡り歩き、華奢な体格やスピードのないボールを、リリーフと変化球投手・しかも左のアンダースローという見た目にも目立つ投球フォームでもって作品を彩った。では、三島衛理子「高校球児ザワさん」は、一体どう読めるのだろうか。
 ザワさんは都内の野球の強豪校に通う高校一年生の女子である。ソフトボール部があるものの、彼女は野球部に所属して日々鍛錬に励んでいる。女子の野球部員、というだけで彼女は目立って当たり前の存在であることを作品は隠しもせず、むしろ自明のこととして、あえて目立つように描き続ける。だから、彼女の描写のほとんどが何者かの視線に委ねられている。男子部員に混じっている異質な存在として、ただ女性であるという一点だけで、周囲の視線は動揺してしまうそれは、まるっきり思春期の男子そのものであることは男性読者ならわかってくれると思う。彼女の身体を克明に描くことで、意識せざるを得ないザワさんというキャラクターに注がれる読者の視線も、自然と彼女の胸や太ももに向けられるに違いない。
 この場合、男性部員が着替え中のザワさんにうっかり遭遇するという典型的な挿話というかシチュエーションはありえないし、あっても盛り上がらない。むしろ、ザワさんが着替え中の男子部員にうっかり遭遇して彼らがもじもじするという展開のほうがありえよう。それくらいに劇中のザワさんは周囲を攪拌する存在として、注視され続ける。期待されるリアクションはザワさんではなく、彼女に振り回される男子たちだから、心中の描写もザワさん以外に当てられることが多いのもうなずけるというものだ。
 さて、水島新司は「野球狂の詩」から約二十年後に女子高生の野球部員が大活躍する物語を描く。「朝子の野球日記」である。この作品は雑誌の休刊という憂き目にあって、もともとつまらなかった作品がさらに中途半端な出来になったというのが私の感想だが、弱弱しかった水原勇気とは違い、先発完投型の投手として、逞しい存在として周囲から注目されることになる。男子部員の性別を単に女子にしただけって気がしないわけではないが(もちろん女子部員が公式戦に出られるか否かという問題を描きはするが)、ザワさん同様に否が応でも女子というだけで多くの視線にさらされながらも、それをもろともしない強さで強打者を打ち取る。何気ない日常から垣間見える女子部員と男子部員の違いではなく、ニュースとして通用する結果を残して、女だけど男に負けないという女性であることを訴えていくわけだ。ザワさんとは全然違うわけであるが、何よりがっくり来たのは、朝子以外に女子部員がいる野球部が登場して朝子と対決するっていう展開にはちょっとうんざりというかなんというか。この辺が、野球の結果に重きを置くようになった今と昔の水島漫画の大きな違いにもなっているんだろう。
 ザワさんが今後選手として(今のところ規定により公式戦には出られないが練習試合には出られる)結果を残す展開もありえよう。その時の彼女が水原のようなのか朝子のようなのかはわからない。だが、多くの読者は戦いの結果を素直に受け入れられるに違いない。彼女の努力する日常を知っているからだ。
 試合の描写が中心になりやすい野球マンガにおいて、試合の結果に納得いく展開をいかにして描くかは、その前の練習の描写に支えられている。まあもっとも、主人公が潜在的に持っていた謎の能力とか謎の気力とか実は天才だったとかで試合中に才能が開花して、ありえない結果を残そうとするって展開も嫌いではないが、練習場面を丁寧に積み重ねてこそ、やっぱり主人公の野球の上達も含めた強さを実感できるというものだ。
 ザワさんを読んでて楽しいのは練習場面である。彼女の熱心さは、頑張れと個人的に応援したくなるほどに真摯だ。そして何よりも前向きだ。ザワさんの内面描写は抑えられてはいるが、彼女が野球に対して真面目に上達しようと取り組んでいる姿勢は、コマの中に秘められている。第23話「オフシーズン」が好例である。ここのザワさんが一番好きだったりする。
 各話6頁という中で、この挿話はザワさんの前述の心意気が詰まっていて素晴らしいと思う。タイムトライアルを繰り返している部員たちの中にあって、一人遅れてしまう彼女の全力疾走後の描写。足手まといと判断した練習を指揮する先輩?が彼女を練習から外そうと「もういいよ」と声を掛ける、一人でも遅れたら、はじめからやり直しみたいな感じなのだろう。ザワさんは第15話で、女生徒から練習中に声を掛けられて「速ッ」と思われる場面があり、そこそこ足は速いんじゃないか、しかもその生徒はザワさんが息を切らせず全力疾走してきたことに驚くことからも、心肺機能も強そうだと思わせられていた。男子部員と同じように振舞うことで女子であることのおかしみがにじみ出てくる他の挿話にあって、ここでは、現実には男子部員との体力的な違いがはっきりと描写されたのである。
 投手希望らしい彼女にとって、下半身の強化は必須であることからして、この力の差は致命的だろう。およそ先発完投なんざ望めない。でもザワさんは諦めない。4コマにわたって同構図の息を切らした彼女が右側に描かれるけれども、左側に大きな空間が出来ている。彼女を練習から退けようとするフキダシは彼女に被さって描かれることから、もういいよと言いながらも、どこか後押ししているようにも感じられる。彼女の答えはもちろん、遮るもののない左側に向かって吐き出される。その後、もういいよの声の主はゆっくりと左側に歩いていく。部員たちの視線はそれを追い、もう一度タイムトライアルが行われることを告げられた。最後の6頁目で再び同構図になると、ザワさんの視線も移動していた。ザワさんのやや斜め前方、ほぼ読者と相対することになる視線、ああそうだ、彼女は常に誰かに女子としての身体を舐めるように見詰められることが多かったけれども、ここの彼女への視線は、性別に無関係の、体力のない一部員として見詰められているだけなのだ。彼女はチーム内で特別扱いされてはいないし、部員たちもそれを知っているから、もう一度の掛け声に後ろを誰も向かないし、ザワさんも彼等と同じように前を向いて「よーい」という声を押し切って、「スタート」するのだ。
 何気に右わき腹に手を添える描写で悲壮感を表現しつつも、ザワさんの前進する意志は誰にも止められない。
(2009.8.10)

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