「迫力の裏側」

井上雄彦「バガボンド」8巻 講談社モーニングKC



 大人気漫画である。他を圧倒している。実際面白く読んでいる。けれども、咽元に突っかかる疑問、何故それほどの支持を得ているのか。……というようなことはここで問題にしない。正直言えば、もっと面白い漫画はあるのになんでこんなので満足しちゃうのか……というひがみがあるだけで、この作品についてはさして興味なく単に消費している・読み終えてそれでおしまい・といった気楽さのままに読みつづけているに過ぎなかった。ところが8巻冒頭、胤舜の突きをかわした武蔵が木刀を振り下ろすも槍に阻まれて間近に対峙する場面で、胤舜の動作に違和感を覚えたのである。その正体を探るべくここでは、8巻の見せ場である武蔵対胤舜の巧拙を読み解く。
 武蔵はまだまだ修業中だから、型や流派の影響は作者の想像力に委ねられようが、宝蔵院流は胤舜の師・胤栄によって確立された名高き術である。フィクションとはいえ当然下調べくらいしてほしいものだが、どういう理由か劇中では術のかけらも感じられない。十文字槍は突くだけではない、ある詩に曰く「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 何につけてものがれざらまし(逃れられない)」と詠まれるほど脅威なのだ。しかしどうだろう、劇中の胤舜は突く攻撃に終始しており、作者が人物の心理にしか興味がないさまを露にしている。それが人物のあの顔・表情の精緻な描き込みや流線や集中線を必要としない迫真の表現を生み出す源にもなっているのだが、剣戟もこの作品の肝であることは否定できない。戦争を背景にしながら人物の極限状態の心理が主題だからといって、時代設定や考証がいい加減ではよほどの説得力ある画力を示さない限り劇に夢中になる以前に冷めてしまう。で、私は冒頭で冷めてしまったのだ。つまり、69話(頁数不明)の胤舜が木刀を槍で受け止めたコマと次頁の胤舜と武蔵のコマ、槍の持ち方が違う。武蔵を跳ね返して後にすぐ槍を持ち直したと読むことも出来るがそれをほのめかす描写はない、ここで私は、そもそもこの殺陣は本物のやり取りか? と疑ったのである。長い対峙の中でさんざん恐怖だの命のやり取りだの苦悩しておきながら、実体は軽薄な殺陣の描写ということがここではっきりしてしまう。先の対決では胤舜の強さが武蔵を凌いでいたために、全然気にならなかった槍術のいたらなさが、真価を問われながら発揮できなかった場面・槍の持ち直しで一気に噴出する。
 槍は柄の端を持つ、基本である。真ん中を持って構えては槍の長所・長さ(あるいは間合いの広さ)を生かせない。胤舜は武蔵に突き飛ばされ、すぐさま突きを二回続けて繰り出すが(ここの武蔵の浅いかわし方にも問題ある、木刀でしっかりと槍を叩かないと槍を引かれた際に斬られるぞ)、槍を強く握ったままで勢いのままに長い柄を滑らせていない。これでは勝てない。けれども生死の狭間を渇望する胤舜が利点をあえて捨てたと解釈しよう。次に、槍の長さは3メートル近くあるが、その長さを感じる描写は極めて少ない。特にほぼ正面から槍を突き出す場面に至っては立体感に乏しく、作者ほどの画力があればデフォルメしてもよさそうなのに、十文字の刃を強調して武蔵の「厄介だな、十文字槍とは(7巻より)」という思いを読者に実感させるに留めている。
 さてしかし、6巻にて胤栄「山はお前(武蔵)の故郷、そして師じゃろう?」、7巻にて上泉秀綱「我が剣は天地とひとつ」といったセリフが8巻で一瞬結実する。70話冒頭で「見える」と言う武蔵だ、背後の草木と一体化したような画である。ちょっとこれは頭が下がった、巧いな。でもその画も、後に焚き火が消えて周囲が真っ暗になったときに似たような描き方を数頁やっているので効果が薄まってしまうから残念でならない(作者は自分の力量をつかんでいないのか?)。武蔵が剣の悟りを無意識理に体現した瞬間だというのに、もったいない。そしてその後武蔵は胤舜の頭を叩くのだが、このコマの構図がまたまた不満である。何故、打ち据えた武蔵の顔も描かないのか? ここは見開きいっぱい費やしてでも両者の表情と全身を描ききらなくちゃあならない、腕の見せ所なのだから。

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