「blue」 一本の線

魚喃キリコ「blue」 マガジンハウス MAG COMICS


 原作ファンにとってすこぶる不評らしい安藤尋監督の映画「blue」。正直、私はこの映画好きなんだけど、魚喃キリコのファンにとっては非常に物足りないらしい。そこにはファン特有の選民意識があろうし、比較することでしか映画を鑑賞できないという不幸もあろう、そしてお気に入りの場面がどう映像化されるのかという期待と不安もあったろう、原作を知らない人が良かったという感想に対する反発・原作はもっと良いよという思いもあろう。ここでは視点を変え、映画化によってこの作品の、ひいては漫画の本質・自明に思われていた漫画の本質についてあらためて見直したい。
 原作の漫画を読み返すととても窮屈な印象が否めない。それは映画の画面の広さと多くのロケ地によってあぶり出される田舎の風通しのよい景色から一層強くなる。町の中をすたすたと歩き続ける二人(桐島:市川美日子、遠藤:小西真奈美)、風の強い海岸で言葉を交わす二人、土地の空気というものが色濃く描かれる。一方の漫画は、狭い。告白も何も学校の中、閉ざされている。だからこそ二人の心情がより強調され、友達とのいさかいが寄せ書きが青春時代の一頁を浮き彫りにしてくれる。原作にはない田舎の空気を海辺の町・風によって雰囲気を作った映画に対し、主人公を中心とした人物たちの感情を細やかに切り取って見せた漫画、どっちが良いということではなく、これが映画の・漫画の特色だと思う。
 魚喃氏は背景を描けないことはないんだが、なんでか主人公達の重要な会話は一箇所に閉じこもって寄り添って淡々と描写される、というか冷徹なくらいである。そもそも擬音がないし、ひとコマひとコマがイラストめいた画面で構成されている。第1話の海辺での会話、実際には波の音風の音で騒がしいのだろうが、とてもひっそりとした感じで最初の二人っきりが続く。そうした中で現実味が得られる所以は、作者が人物の髪の毛が風にゆるりと煽られる様を折々描いているからである。それが画面に変化を与え、同時に静かな雰囲気を維持する。まったくもって自然な流れと読めてしまう。映画では当然音が入る、ひっそりとした印象は消える、波や風がスクリーンを埋める。ところがこれらの雑音が静寂を強調してくれるから不思議だ。人が持っている自然音に対する寛大さがあるのかもしれない。音を排除することによって生まれた漫画の中の静寂、音を入れることによって生まれた映画の中の静寂。違う表現方法にもかかわらず同じ結果が得られるという面白さ(もちろんそれらの印象には個人差が多分にあるだろうけど)。
 これは何を意味しているのだろうか。音については他のとこでもいくつか触れてきたつもりだが、映画によって漫画と音の関係が鮮明になるとは驚いた。さてしかし、漫画では多くの独白がぽつぽつと切なさを自己主張するように挿入される。桐島の今の気持ちが読者に次々と提示され、結果感情移入を促す。だからこそラストの別離が悲しいのだ、苗字で呼んでいたけれど、最後の最後で、心の中ではずっと下の名前で呼んでいたのに言えなかった彼女が、「まさみちゃん」と言う、たったこれだけで感動を誘い同時に儚さも増すのであり、最後までカヤ子と呼んでくれなかった遠藤に対しても気持ちが高ぶっていくのであろう。主人公の心の音が作品いっぱいに広がっているのだ。映画は独白はほとんどない。だからこそ雰囲気によって主人公達の状況を醸し、足りないと思えば台詞で補っていく(もっとも映画の台詞は驚くほど原作に忠実である)、外からの音によって人物の気持ちを克明にしていくわけである。中の音と外の音、この温度差が漫画と映画の評価の差になっているのかもしれない。
 で、何故そんなことになったのかというと、結論から言って、省略の妙が根本にある。まず配役ひとつとっても、漫画そのまんまの子が現実にいるはずもなく誰かを当てなければならない、その時の鍵はやっぱり雰囲気というはっきりしないものになってしまう。結局その感じ方は読者それぞれあるわけで、監督も一読者な訳でして、当然他の読者とは感じ方が違う(私とも違う)から配役は読者の期待に沿えるものとは限らない。唯一の指針は作者の声しかない(配役のオーディションにはプロデューサー、監督そして作者も同席している)が、それでさえ読者の想像とかけ離れているかもしれない、物語を真に構築するのは読者だからである。また、配役が印象どおりだったとしても、漫画の人物のような表情は出来るわけもない、皺や影さえ省略した表情によって展開される人物の会話に現実の物体が入る余地はない。場所が特定できる背景が描かれていたとしても(漫画では実際に描かれている。映画は当然どこでで撮影したかわかる)、それは本物の景色ではない、写真ではない、絵だ。アニメ「海がきこえる」のDVDに収められたスタッフの座談会の中で監督望月智充氏はこう語る「実写っていうのはすごい余分なものが写りこんでいる、芝居ひとつとっても背景にしても。それを全部そぎ落としているところがアニメーション的である」と同時に漫画的でもある。同じような意味のことは貞本義行氏もガイナックスのインタビューで言っていた。すなわち線である。どの線を描き描かないか、漫画の画力はここが肝である。どんなに緻密な絵を描いたところで、絵である。実写のようなリアルさはない、だからそこに現実感を与えるとしたら現実らしさを線で描写するしかない。「blue」では、空の描写に線が一本すーっと入っている。雲とも風の軌跡ともつかない線がある。その線だけ取り出せば、何を意味しているのかわからないが、ある画面の中に納まると、奇妙にも安定してしまう。これは言葉ではなかなか表現できないことだけど、とにかくしっくりくる。風であり雲であり、あるいはそのどちらでもないただの線が、空の表情や空気を表現してしまうのだ。
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