「G戦場ヘヴンズドア」 タマシイガナイ

日本橋ヨヲコ「G戦場ヘヴンズドア」第1巻 小学館 ビッグコミックス IKKI


 日本橋ヨヲコの漫画って、結局学校の中だけしか描けないのかよ、とちょっと思ってしまったほど、この作品に少々幻滅した。いつもの日本橋節は承知の上だから冒頭の短文に惑うことなく、当然劇中の真っ正直な登場人物の絶叫も面白く読めた。随所に見られた構成の工夫(たとえば「血のいもけんくん事件」の逸話の挿入)に加えて、いっそう磨かれた全頁全力投球の台詞回しとか、実に楽しく読めた。さてしかし、途中から気付いた作者の絵柄とは明らかに違う人物がたびたび登場するにつけ、なんだかいやな気分になった。もちろん、物語の中で描かれているように、誰がベタ塗ろうがトーンは貼ろうが書き手がしっかり指示していればいいわけで、ましてネームは全部一人の手によるものだから、この漫画もまさしくそのような方法で描かれたことは容易に察せられる。登場人物のことごとくをたった一人の作者によって描き分けるのも無理だろうし、だからアシスタントってーのがいて尤もなわけで、日本橋も出世したなーと正直うれしくもあり、複雑な気持ちであったが、それらもろもろを砕いた描写が一読にして表われてしまったから驚くとともに、非常に読む気が失せてしまったのである(と言いながら、物語は楽しんで読めるので、下記の戯言は戯言として・愚痴として読み流せばいい次第であるが、こういう描写を続けられると漫画やめて小説書けコラと日本橋に癇癪起こしそうなので、変にアシに頼るなよーというのが真意である。)
 えー、ノンブルがわからんぞ。なので第5話・町蔵の回想「母さん行かないで」のあとで久美子の手を握る場面の頁。彼女は町蔵の手を振り切って歩き去るが、この最後のコマ、ここで突然興奮が冷めた。背景である。小さなコマによく描いたものであるが、別に背景に問題があるわけではなく、作者自身の手による人物にも問題ない。ところがこの二つが重なるとなんともはや、不自然と言うか違和感ありまくりと言うか、その前のコマ「お前要るよ」の道路とブロック塀も含めて、写真から起こしたような精緻な背景なのである。一等わかりやすいたとえをいえば、「ちびまる子ちゃん」の背景が全部実写みたいといえばいいだろう。……想像するに恐ろしいばか漫画の出来上がりである(一回だけなら面白いかもしれんが、すぐに廃れる技法に違いない)。
 その感覚の一因は描線の太さにある。人物画には、巧く丁寧に描こうという意識よりも先に、キャラクターの設定を鑑みて一度造形を決めれば後は大げさな身振り手振り構わず台詞と気持ちに合わせて勢いよく魂込めて書き上げていて、言葉がどんなに青臭かろう嘘臭かろうが、そういうことが出来る舞台装置をあらかじめ用意しているのだから物語の世界に没入すればそんな些細な匂いなんて全然気にならないものである。一方の背景はどうかというと、とりあえず全部読んでからぱらぱらと読み返してみると判で押したような景色がずらずらと描かれていて改めてびっくりしたのである、人物の印象とは正反対なのだ。各話の表紙以外はもうわけわからんくらいやっつけ仕事みたいで、ああ、日本橋って、ほんとに人間にしか興味ないのね・漫画で人間描くことにしか興味ないのねっといった諦観な雰囲気になってしまう。
 日本橋短編集バシズムを紐解くと、背景は人物と同等に描かれている。人物とほぼ同じ描線だから、下手に描けは当然景色の中にみんな埋もれてしまうが、なんか巧くかけている。そういう感性があるんだろう、そのうち人物の描写に集中して読み進められる。で「G戦場」は最初っから人物が中心である。景色は表紙で全部まかなっていて、劇中のそれは記号みたく、なおざりにしかみえないような描きっぷりとなってしまった。
 しつこく言うが、人間にしか興味がないって、そりゃないよな。しかも漫画がテーマだろ(厳密には漫画を媒介にした戦友物らしい)、坂井大蔵が戦慄した漫画がどんなものか知らないが、もしそこに人物と台詞しかないとしたら、それでも漫画と言えるのだろうか。「悲しいくらいにニセモノだ」っていうのは自分に向けた言葉なんだろうか……
 読者が望むものは、心に残る台詞ではなく、心に残る場面のはずだぞ。それとも「無難なものを手癖で描いた集大成」ですか、これは。


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