「五年生」第3巻 2000年1月21日初版 講談社アフタヌーンKC
作者 木尾士目
第13話から第16話にわたって明夫と芳乃ふたりによる会話がだらだらと展開しています。会話の内容の暗さは人それぞれの好みによりますが、私はどうにもつまらないカメラワークにセリフの緊張感というものを感じられませんでした。
舞台はラブホテルの一室で、室内は一様に暗く、登場人物はふたりのみ。それだけで延々と会話だけの描写となれば、コマの中はしゃべる人物と吹き出しだけになりやすいものです。セリフだけを読み進めるだけなら問題ないのですが、さて、漫画ですからそれなりの演出も必要になるでしょう。場面は自己の心情を互いにぶつけ合う緊迫したものですが、演出によって緊迫の度合いはいくらでも増幅します。ですが、この作品では、作者がそうした努力をしているのか甚だ疑問なのです。
まず、視点が単調です。この作品だけではないのですが、もともと絵で見せる作家ではないようです。セリフの量も多いし、コマ構成に凝ることもなく、動きも少ない。地味です。それでも読めるわけは、密度の濃さです。ほとんどアイアングルで何人かの人物を細かく描写したり(第1巻第4話のコンパの場面など)。もっとも、基本的に一対一の会話を中心に成り立っている漫画なので、人物はあまり大袈裟な行動をせずにじっと話しつづける、視点の工夫のしようがないと考えられますけれども、それはそれぞれの会話が一話以内で済む程度の長さなので、話す相手が変われば読者もまた新たな場面に出くわした感覚になって読みつづけられます。ですが、その会話が100頁を超える長さに及ぶと、今までのような演出では物足りなさが表面化します。で、ものの見事にはっきりしてしまったのです。
視点の工夫は、たとえば天井からの図(会話前に一回あるだけ)がない。また、やたらと人物の斜め左の顔が描かれる。これは利き腕の関係上それが書きやすいアングルと思われますが、だからこそ演出が必要なんです。しかしここには演出した気配がないのです。68頁から明夫が煙草を吸い始めます。ところが、これがまったく生かされていません。煙草を吸う人物が喋っている、ただこれだけなんです。灰を灰皿に落とす場面がない。吸い終わって火を消すときになってようやく灰皿が描かれる。人物の表情にばかり気を取られて、そうした小道具を使っていないから、どうしても人物ばかりの場面が続くことになります。ふたりは常に見詰め合って話しているわけではありません。ちょっと視線を逸らすこともありますから、その視線に入ったものをそのまま描いてそこにセリフを被せる、このくらいの演出さえ満足にしていない。なんだか狭い舞台で演技する芝居のようなんです。物語の空間が部屋の中だけに納まっていて、会話さえ広がらない感じになっています。それこそ芳乃が言う数回会った男まで会話の中では描かれない。想像していないんです。
と同時に、コマの密度もこの4話は薄いのです。大ゴマが多用されています。だから、印象深い場面というものがほとんどない。読み終わって覚えているのは見開きの「欺瞞がどんどん暴かれていくみたい・・・」くらいで、その場面さえただ大きく描いた、というだけでこれといった特徴がみられません。今まで通りの密度なら、半分くらいに縮められる程度の内容です。というのも、実際に密度を調べてみたからなんです。
1頁当たりのコマ数の各話ごとの平均を出しました(なお、表紙1頁を除きました)。第1話は約5.9コマで一番多く、第1巻・第2巻では平均約5コマです。ところが問題の4話の平均は3.9コマ。激減していますね。第3巻の残りの2話の平均は約4.9コマなので、読まずとも4話の大ゴマの多用がわかるでしょう。木尾士目のデビュー作「点の領域」の平均は約8コマですが、この作品は1頁で1コマや見開きがあってコマ割も変化に富んでいます。舞台も主人公の男の部屋だけ、登場人物も男と女二人だけ。それでいて「五年生」の1話分の頁数より1頁多いだけで、結構濃い話を展開しています。つまり、出来るはずなんです、木尾士目は。
これは手抜きでしょうか・・・それともこれがこの作家の見せ場の作り方なのでしょうか・・・
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