冬、須磨にて

木村紺「神戸在住」第4巻 講談社アフタヌーンKC


 「神戸在住」も4巻目。今頃になって気づいたが、この作品、結構音がある。稚拙にも見える擬音、124・125頁の飛行機の音や花火の音のぎこちない描写をみると、いまもってなお垢抜けない作者の技量を垣間見られる(他に114頁下段のドアの描き方なんて素人というか小学生みたいで、編集も少しは注意しろよといいたいが)、こんな描写だからこそ実在の景色を写し取りながらも独自の景色をこしらえてしまえるのかもしれない。
 作者の優れた点は、その独自な背景に埋もれそうで埋もれない繊細な輪郭で人物を描くところだろう。連載初期の絵と見比べるとわかるが、線の描き方が格段に上達している。もともとフリーハンドの絵が好きらしい作者の絵は、建物の輪郭までそれなものだから、初期の絵のよろよろした背景も4巻で見違えるほどで、完全に自分のものにしている(定規で引いたんかな? と思える線もあるが、それだけ慣れたんだろうな、第1話の不器用な描写と比べてみるとよーわかる、白黒がはっきりしてるからなー)。髪の毛の黒さ・服の色彩・建物の立体感、それらがきっちりと線だけで構成されているのだから驚く。
 今回注目したのが第36話「冬、須磨にて」である。第1巻収載の第5話「夏、須磨にて」と対をなすこの挿話は、二つの表紙を比べただけでわかる人の少なさである。劇中主人公が語る「閑散」の意味が第5話の賑やかさ(夏は4人の友人と来ている)によって一層引き立つ仕掛けである。いや、それよりもはっきりわかる背景の上達振りはどうだろう。同じ構図でこうも違う……影の描き方も違うし、なにより線で表した道の上にさらに線を重ねて人の影を描くのだから、ほんとにうまくなったなーと感慨深い。
 では具体的に比べてみよう。1巻96頁と4巻170頁、「海だ」のコマ。開放感はともに同じでありながら読み手に与える印象の違いがすばらしい。一方が騒々しさ・つまり開放されたのは主人公ではなく読み手の視界であり、もう一方の寂しさは主人公自身が開放された→ひいては解放される(緊張感が解かれるということ)。どちらもちゃんと空気が動いていながら、前者は人の多さにまぎれて風の描写が海から離れる間際の旗の「ぱたばた」くらいである。後者は次のコマでもう風を描いている。つまり5話の夕刻の寂しさが旗のばたばたから車中のため息くらいの短さに対し、36話のそれは海に来た直後から始まっているのだ。そして前にも書いたけど、遠くにいる人もきっちり描いている点がまた好感。人気がない寂しさではなく、風景それ自体が抱えている寂寥感なのである。人はいる、5話よりも丁寧に通りすがりの人々もきっちり息をさせている。季節の違いだけでなく、そこに来る人々の息遣いまで違うものにしてしまう筆致があるのだ。
 さらにですね、この話はコマ運びでも魅了してくれるのだ。どちらかというと絵日記風のコマ運びの感がある作品だが、4巻171頁2〜5コマ目の4コマが縦に並んだところ。ここはすごいんですよ、何気に。まず1コマ目で風が「さわっ」と動いて2コマ目、「びゅわっ」と主人公の髪をあおり左上にふっと消えていく。3コマ目の「……」は4コマ目右上の「ううう」に続き左下「ぼううっ」とまた風の通り道を表現している。しかもこの場面は友田は前に歩く様子とそれを目で追う桂が交互に描かれ、動きが流れているのである。コマの連続で雰囲気を伝えるだけでなく、「ぼううっ」が友田がいなくなったために風を直接受ける桂・同時に一瞬置き去りにされた感覚(次頁で桂は友田のことを何も知らない自分を思い起こし、心理的にも距離を覚えてしまう)、4コマ目の左の空間は実にたくさんの意味が込められているのだ。
 友達との会話と主人公の独白が中心の言葉飛び交う物語の中にあって、ここの描写は空間だけで多くを語った稀有な場面だろう、こういうのをもちっと増やしてほしいな。


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