「ラブロマ」1巻 空のガー
とよ田みのる「ラブロマ」1巻 講談社 アフタヌーンKC
作者は何か言葉とか擬音とか描かないと落ち着かないのだろうか。作中の台詞とは別の人物達の様々なつぶやきの面白さがこの作品のひとつの味になっていることは疑いようがないだろうし、実際楽しく読めた、かなり。林先生が「逃げっ」って走ったり陽子の「今日も平和ね」とか塚原の「でも言わない」などなどたくさんあって、つい画面の隅々まで目を通してしまうのだが、さてここでよくわからない擬音が現れた。「ガー」である。
11頁1コマ目に端を発した空の音「ガー」は、その後の時折描かれる。空白が許せないとばかりに空には雲ともなんともつかない横線がフリーハンドで引いてあるし、そこに「ガー」という音が入る、昼夜構わずに。町の騒がしさとか、とにかく静寂ではないことを訴えたいのか判断できないけれども、まるで空さえも登場人物であるかのように、つぶやいているのである。単に作者の癖なんだろうけど、級友たちのわいわいがやがや振りが存分に描かれているのがまた楽しかったりするわけで、たとえば屋上で二人の会話を盗み聞きしている彼らののんびり加減なんかたまらん魅力で、その他大勢の彼らがとても輝いて描かれているんである。軸として星野と根岸の掛け合いがあるが、それを劇中のみで盛り上げるどころか読むものの気持ちをも煽る結果になっているのだ。
この絵を上手いかどうかはともかくとして、個人的に思い出した漫画家が青木雄二である。青木氏は描き込んだね、隅々まで手を抜かずに。畳の皺から店の看板まで細かく刻みまくった。もちろん設定の面白さもあったけど、町にあふれる看板を一字一句読んでその卑猥さ間抜けさに笑ったこともあった。とよ田氏もそれに近い気が突拍子もなくしてしまった(51頁2コマ目がとよ田氏が描く店々。ここにもガーがいるけど、作品の雰囲気そのまんまの店の名前だな。ニコニコパンですよあなた)。で、よく読むと簡略されていながら実に丁寧に描いているのである。
54・55頁の屋上から見える校庭で遊んでいる生徒の影がわずか5人(5人だけかよ、という突っ込みはなし)、これが127頁の屋上では、主人公達から距離が近いこともあってか、7人の生徒がそれぞれくっきりと描かれている。この差は何かって言ったら、当然遠いか近いかって事。でも作者の中には、この構図から見えるものは全部描けるだけ描いておかなければ、という意識があるのではなかろうか。30頁から34頁の観覧車から見える夜景はどうだろう。これは偶然だろうけど非常に上手い演出である(もちろん雰囲気作りのための演出が先に立つだろうが結果として)。というのも、これが昼間の景色だったらと想像したときのそっけなさが校庭の5人なのである。建物の線が闇で消えることで無駄に線を引く必要がなくなり、明かりの描写に集中できるし、画面の暗さがあるからこそ二人の顔の明るさが際立つわけだ。夜の公園の描写もそれに通じる。さてしかし丁寧なのは背景だけでは当然ない。11頁1コマ目と35頁1コマ目、登下校の比較、朝と夕方による影の違い(こういう時間の経過による影の変化をちゃんと描かない・無視する漫画もあるだけに、きっちり描かれてあるのが嬉しい。147頁1コマ目と156頁1コマ目も同様、こちらは昼と夕方による影の違い)。
「ラブロマ」の評判をざっと見たところ、やはり主人公二人の漫才とそれを取り巻く脇役達の魅力の印象が強いらしい。いきなり告白からはじまってみんなでわいのわいのと楽しく過ごしているのが郷愁をも誘うようだ。基本的に気楽というか適当というか、誠実な描写でありながら非常にのほほんとしている。そもそも携帯電話が出てこない(これが郷愁を呼ぶ要因だろう)。多分これからも登場しない小道具かと思われる(けどそう書いて2巻以降出ててきたら自分を笑うよ)。作者の性格としてはおそらく限りなく根岸に近いくらいの、落ち着きのなさというか細かいようで粗雑というか、というのも根岸が「FUNUKE LABEL」という猫のエプロン着てたり目覚まし時計持ってたり部屋にはそれのポスターだか貼ってあるし、この猫は作者の自画像の隣にいる猫でしょう。この適当に肩が抜けた猫の絵がたまらなく好きである。この作者の本質(と思しきもの)が作品全編をほんわかと包んでいる・すなわち級友たちの存在にやはり行き着くわけである。楽しさが二人だけにとどまらずクラス中学校中に共有されている平和加減がそのまま読者の心を和ませるに違いない、それは決してかわいいという感情ではなく、言葉を操らないもの一つ一つにまで一筆一筆にまでしみこんでいるお気楽で楽しさに満ちた笑顔なのである。
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