マンガにとって「映画的」とは何か(考え中)

1回目



 藤本タツキの長編「さよなら絵梨」が公開されるや否や、「ルックバック」同様に話題になり、自分のTwitter周りや観測範囲でも互いの感想で盛り上がっていた。漠然と検索して自分の周囲以外にも観測範囲を広げると、作劇の演出上の影響だろう、「映画的」という言葉を用いた感想が多く目についた。もちろん、個々人が個々に抱いている個々の「映画的」なるものに基づいた感想である。私自身、「映画的」なマンガというものに関心が強かった時期もありながら、いまだもって「映画的」の正体を掴めないでいるのだが、三輪健太朗の大著「マンガと映画」によって、「映画的」なるものの言語化はだいぶ進んだのだろうなぁと思っていた。
 しかしながら、映画のスクリーンあるいはスマホの画面を模した「さよなら絵梨」のように一頁横四段のコマ構成によるコマ割によって、もし「映画的」と称するのであれば、そんな苦労はないわけで、今一度自分の中で言語化してみようというささやかな試みである。
 以前から考えていて今も考え中だが、映画とマンガの関係性は、そのスクリーンとそのコマの類似性であることは明白である。やれカット割りがどうの、カメラを意識した構図がどうのと考えたこともあるけれども、結局のところ個人の主観によるところが大きいのはとりあえず置いといて、まずはその関係性をクリアにしたい。
 話は意外なほど・びっくりするぐらい単純である。
 映画のフィルムは、1秒間24のフレーム・つまり写真を連続でスクリーンに映して動き・ひいては物語を表現している。このフレームをコマという書物や評論もある通り、両者は言葉尻でなく実際に近しい関係であるらしい。本稿では、フレームと言えば映画の、コマと言えばマンガのそれとして区別しておく。
 たとえば、その24のフレームを24のコマと見立てて順番に、「さよなら絵梨」のように一頁4コマ並べてみよう。あっというまに6頁出来上がる。
 果たして、これはマンガだろうか。
 曲がりなりにもコマが並んでいる。マンガであることは間違いない。1秒間の出来事とは言え、その間に聞こえる擬音などの音を描き加えれば、一般的にいうところの、もっとマンガらしくなる。
 では逆に、この6頁のマンガをスクリーンに1コマずつ映してみよう。描き加えた擬音が邪魔ならば消してしまえばよい。1コマを1フレームとして映写すれば、1秒間の映画として復元される。あるいはそれはアニメと呼んだほうがいいのかもしれないが、いずれにせよ、映画になる。たった1秒間だけど。
 では、10秒間ならどうだろう。240フレーム。240コマにして同様に並べれば、たちまち60頁のマンガが出来上がる。60頁と言えば、もう立派な短編だ。面白いかどうかはともかく……いや、TikTokから10秒の面白いショート動画を探して、それをマンガのコマにしてしまう手もあるだろう。きっとショート動画のように面白い……だろうか? こればかりは実際にやってみないとわからないが、とにもかくにも、10秒あれば、それなりに台詞もあろうし、何か動きもあるだろう。
 でもきっとこう感じるかもしれない。コマとコマで描かれているキャラクター・物体にほとんど動きがなくて、スローモーションみたいだ、と。では、多分、細かくコマに分割し過ぎたのかもしれないので、省略してみたらどうだろう。1秒24フレームを全部コマにせず、24フレームから適当に2コマ選んで並べてみよう。すると、20コマ、5頁のマンガが出来る、これならコマとコマの間の動きも多少は差が出るし、スローな感じは軽減するのではないか。
 ではまた、この20コマをフレームにしてみよう。もちろん1秒24フレームでは1秒も持たないし、何が何やらって感じだから、2コマで2秒になるように表示する。もう動きの滑らかさはないが、じゃあこれは元のTikTokと同じ動画なのか……フィルムにして映画館でこの1秒2コマの映画を流せば、広義には映画と呼ばれるものになるけれども、元のTikTokと同じ動画かと言えば、話は同じだけど、もう違う動画になっている気がする。
 では、1フレームと1コマの差は、時間なのだろうか? または省略された動きなのだろうか? 確かにそんなことを考えたことはあるけれども、なんだか違う気もしないではない、根拠はないが。
 では次に1秒を240メートルで等速移動する物体を映画として望遠レンズで撮影したとしよう。それを24フレームから24コマ・6頁のマンガに変換する。今度の物体はコマとコマの間に差があるだろう。スローな感覚は残るかもしれないが、ほとんど動きのないコマが連続することはなくなる。そこにスピードを感じさせる擬音を付ければ、一般的に見て、よりマンガらしくなるだろう。
 さてしかし、省略せずに一応の動きをコマで描けたとはいえ、これってつまり、映画もそもそも省略されているってことになるのではないか。つまり、1フレーム10メートルずつ移動している物体が映されているということは、10メートルから次の10メートルの間の物体の動きが映されていないってことだ。
 現在はデジタル技術の向上によって1秒間24フレームのフィルムにでなく、それ以上のフレーム数での撮影も可能となっている。なってはいるけれども、いくらフレーム数が増えようが、必ずフレームで捉えきれない隙間の時間が存在する。滑らかに動いて見えたとしても、所詮は錯覚であり残像だ。目の前の光景とは完全に一致することはない。
 フレームをコマに見立ててコマと同じくすれば、コマとコマの間の省略同様に、フレーム間にも捉えきれない隙間が生じる。捉えようとしても捉えられないフレームの間隔と、マンガの演出としての省略によって生じた間隔は、意味が異なるが、結果だけ見れば、どちらにもどうしたって埋められない時間の溝があるし、それがあるからこそ、フレームとコマは近しいとも思う。
 ではその前に例とした、1秒2コマの10秒の映像はどうだろうか。マンガとして省略された演出が施されているが、これは映画ではないのだろうか。
 YouTubeには、販促のために多数のマンガの第一話が動画として公開されている。
 たとえば「【講談社モーニング公式】マンガ動画チャンネル」の山田芳裕「望郷太郎」は、動画で公開しながら「漫画」と称して1コマずつ画面に表示して公開している。この動画は効果音とBGMのみ、台詞は見ている者が読む。これをフィルムにして映画館で公開すれば、映画になるのだろうか。
 あるいは「heros1101」というチャンネルでは、「ヒーローズ」で連載中の作品を同様に公開している。森つぶみ「転がる姉弟」の第1話もその一つである。この動画は台詞に声優が声を当てたボイスコミックとも呼ばれる動画だ。BGMも効果音も付き、あと少しでアニメになりそうな雰囲気さえある。ほとんど絵コンテで、コンテ撮の後みたいでもある。これもフィルムにして映画館で公開すれば、映画になるだろうか。
 三輪健太朗「マンガと映画」では、実際にマンガのコマを切り取って映画にした大島渚監督の「忍者武芸帳」をきっかけとして検証している。多くの論考を引用・参照しつつ、映画とマンガの違いを明確にする。すなわち、フレームは1フレームずつ観客に意識されることはないが、コマは1コマずつ読者に意識される。思わずフレームとコマは近しい・親和性が高いと言ってしまったけれども、映画が指向する動きと、マンガが指向する動きは、結果を異にしているのだ。物体の動きをフレームあるいはコマによって分ければ分けるほど、映画はより滑らかな動きになり、マンガはよりスロモーションな感覚を強くしていく。どちらも物体の動きに関わっていることは確かなようだが、さて。
 もっとも、これだけでは「マンガと映画」の内容をなぞっただけに過ぎない。もう少し、考えてみたい(続く?)。
(2022.4.26)

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