マンガにとって「映画的」とは何か(考え中)
2回目
再び「さよなら絵梨」から考えてみよう。
上図は「さよなら絵梨」の終盤の4頁を並べたものである。コマを黒ベタにして時間経過や場面転換を演出する一般的な作劇だが、4頁も続くのは異例であろう。ひょっとしたら手抜きと思った読者もいるかもしれない。もちろん、こんなことができるのは、同一構図によるカメラ映像・同ポジを意識したコマ割を徹底したからこそである。また、この暗転に入る直前のコマで、主人公の顔のアップ、グラデーションが掛けられて撮影を止めたらしいような感じを残しているのも、この長い(と個人的に感じた)暗転に、それなりの何かしら意味を求めてしまう。
よくある暗転は上図の4コマ目だろうが、先の引用図は4頁続くのである。最後の1コマに台詞をかぶせることで、一度閉じかけた物語が再開したしたような印象を抱いたが、映画を観ている・映画を撮っているという視点があってこそ成立するとも言えようか。
どうして物体の運動を細かく分ければ分けるほどマンガはスローな感覚になるのか、それは、コマにはある程度の幅を持った時間が包含されているからである。この感覚は個々人によるところが大きいので、4頁の暗転を数瞬で読んでしまう読者もいるだろうし、それなりに何かあるんじゃないかと身構えて、1コマずつ丁寧に読んだ読者もいるだろう。黒ベタから何を読み取るかは自由だし、何も読み取らなくても自由だ。
この物理的な読み時間がマンガという読む媒体には存在する。だからと言って映画とはそこが違うのだ、だから優れているのだと言うわけではない。そもそも本稿は、どちらかの優劣を述べ立てようというものではないことを強調したい。マンガと映画の違いとしてしばしば取り上げられる可変するコマの大きさとスクリーンの固定された大きさであったり、コマを読む時間であったり、そういうことは慎重に、ホントに慎重にならなければならないんだけど、ついつい簡単だから結論みたく扱ってしまう。
映画であれば、暗転してそのまま終わってしまうってことは、とりあえず今はないだろう。終幕を伝える文字が出てくるか、エンドロールが流れ始める。映画においても暗転は時間経過や場面転換を意味するし、マンガと同じ効果がある。暗転は長すぎず短すぎず、ほどほどの時間でスクリーンには次の場面が映されることだろう。もちろん誰かのセリフとともに暗転が明けることだってある。では、暗転が明けた次の場面は、どう感じるのか。「〇年後」とテロップが出る映画もあるだろうし、マンガもあろう。台詞のやり取りや映像などでそれらを伝達しようとする演出もあるだろう。
いろいろ考えて適当に書き連ねたが、今一度最初の図に立ち返りたい。マンガでコマを真っ黒に塗りつぶして表現した暗転だが、そもそも何故コマだけを黒ベタにしたのだろうか。もちろん一つのコマでスクリーンあるいはスマホの画面を模しているからだろう。けれども、マンガを読むうえで、コマというものは意識せざるを得ないことは、第1回で少し触れたつもりだけど、映画のような暗転・まさに目の前が真っ暗になる視覚体験は、いくら図のように黒いコマを並べても、ただむやみにマンガとはコマであることを強調しているだけなような気がしないでもない。というか、間違いなくコマってものを主張している。
もっとも、コマという枠の中が黒くなっているというのも、コマの枠を意識しているからだろう。これがスクリーンであれば、スクリーンの大きさつまり枠を意識していることと変わりはないのかもしれない。だけど、スクリーンの枠はそれ以上物理的にどうしようもなく大きくならないのに対し、コマの場合は、その周りを白い溝によって区切られている。間白だ。
ページをめくれば・厳密にいえば、現時点で「さよなら絵梨」は書籍化されていないので、読者はネットでこれを読んだということで、めくるというよりも、スクロールしたと言うべきだろうが、便宜上、「めくる」と言っておく。そのページをめくってみて、読者は・というと主語がでかいので、とりあえず私は、まず黒い四角が8つ並んでいるのを目撃してしまう。してしまうっていうのは、実際にはコマを見ながら順番に読みたいという意志の表れで、現実には、まずコマ割が目に入ってしまう。まあ、それでもいいだろう。この場面は。ああ、暗転が数秒間か数十秒間か続くわけですね、と了解して、改めて一コマずつ読む。なんともまどろっこしい手続きだな、マンガを読むってのは。
そうして私は16コマ目のフキダシにたどり着く。ほんの数秒の読書体験だが、まあ確かに暗転の効果はあるだろう。でも、こうも考える、コマではなくページ全体を黒く塗ってしまったらどうだろう。素人考えであることは百も承知だが、素朴な思い付きを実践したとして、果たしてコマと違う効果になるだろうか。
まず、コマってものが無くなる、いやページとコマの大きさが一致する。ページはマンガという書籍にとって映画のスクリーンのようにそれ以上大きくはならない物理的な「ガメン」である。
「さよなら絵梨」は、前述した通り個々の読者はネットで読んだ。私の場合はタブレットで最初に読んでみたのだが、「全画面表示」で閲覧すると、一頁がタブレットの大きさと一致して、一頁ずつ読み進めた。本作の見どころの一つである爆発は見開きで描かれたが、それも半分ずつ表示され、見開きであることに気付いた。ちょっともったいない読み方をしてしまったなぁと思うことはあったが、電子書籍もそのようになっているため、馴れてしまったとも言える、改めて見開きで表示することもできるからだ(最初から見開き表示にしないのは、単に画面が小さすぎるからという理由に過ぎない)。
これを書くために改めてPCでも読んでみた。ブラウザはChromeでジャンプ+にアクセスしたところ、見開き表示が標準となっていた。「全画面表示」での閲覧も同様だ。試しに拡大縮小してみたが、見開きの体裁が崩れることはなく、ブラウザの大きさよりはみ出して大きくはならなかった(周りの広告表示などはモニターからはみ出すほど拡大されていたが。単なる私のブラウザの設定のせいかもしれんが)。
少なくとも書籍とは異なる二種類の画面で読んだということである。いずれも横スクロールで、ページごとにきっちりとページが切り替わるわけだが、では、1コマだけ配置された黒ベタのコマはどこにあったか振り返ろう。
たとえば、このページは主人公と絵梨の交流の一場面を描いているが、最後のコマは時間経過の演出であろうか。コマの右上に光っぽい白い差し込みがあることから、あるいは廃墟の地下室に入ったことを暗示しているのかもしれない(次のページはファミレスでの会話であるが)。
上のようなパターンもある。モニターに映された絵梨、最後のコマはそのモニターが真っ暗になって次頁で場面が変わる。絵梨との思い出に耽る主人公、といった塩梅か。
上図のような地下室に降りていく場面の、目の前が実際に暗くなる場面としての黒ベタコマを除けば、これらの暗転あるいはそれに準ずるコマは、全てページの最後のコマに配置されている。ページを意識したコマ配置であることは今更指摘するまでもない。書籍化を睨んだ上で、見開きの最後のコマに配置することでめくり効果を狙ったコマもあるだろう。
第1回でフレームとコマを同じものとし、映画とマンガの違いを考えてみたが、もし「さよなら絵梨」を映画的なスクリーンあるいはスマホの画面を模したマンガというのであれば、何故、これらの場面転換を促す黒ベタは、ページの最後に配置されているのだろうか。繰り返すが「ページ」という書籍を意識していることは明白である。
映画のフィルムは基本縦にフレームを並置しているが、仮に横に並置してもフィルムとしては、それに対応できる映写機があれば映写に際しては問題ない。縦にせよ横にせよ、フレームが並んでいる、というイメージをコマに見立てたとしても、そもそもフレームにはページという概念はない。厳密にはフィルムの物理的長さがあるわけだが、デジタルではそんなこともなくなってしまう。いずれにしても、フレームの区切りはページのような物理的な制約はなく、むしろどこで区切っても構わない。マンガに肩入れしてついついマンガのほうがだから映画より自由だとか言いたくなってしまうが、ページがいかにマンガにとって制約となっているのか、かえって「さよなら絵梨」は映画との相違点を浮き彫りにしている。けれども、それでもってマンガのページが足枷になるわけではない。
さて、前述で画面を「ガメン」とあえて記したのは、次に紹介する論文を参考にしたからだ。
楊〓(火欣)雅「「ページ」はいかにして解体したか」である。
自らもマンガを描く楊氏が2020年に発表したこの論文は、中国の縦スクロールマンガ「条漫」と、ページ漫画としての「頁漫」を比較検討しながら、ページ漫画が縦スクロール漫画に変換される様子や、そもそも縦スクロールを前提に作画された例などを紹介しつつ、マンガにとってのコマとページの概念を、まさに解体する、とても面白い論文である(興味のある方は「https://kougei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2109&item_no=1&page_id=13&block_id=21」で読んでみてね)。
ネットで読むうえで、「全画面表示」とはページを基軸としていたわけだが、縦スクロールとなった場合、このページという考え方そのものから考え直さなければならない。一頁ずつスクロールするのであれば別だが、基本的に「条漫」にはページによる気切りがなく、スマホやタブレットで読まれることを想定した、縦にコマを並べたマンガである。コマがずっと続くのだ。コマとコマの間隔によって区切りっぽい演出もできるが、読者にとってはスマホ等の「ガメン」に表示されている数コマが、ひとつの塊として認識され、スクロールするごとに次のコマが一つずつ表れてくる。実際は、縦スクロールには縦スクロールの見せ方・技術があるので単純化できないんだけれども、もし「さよなら絵梨」を「条漫」にすれば……「さよなら絵梨」に限らないけれども、ページの区切りとして配置されていた黒ベタコマは、区切りとして書籍化された際に自然と区切りにされていたものが、そうではなくなる可能性があるのかもしれない。
もっとも、これはページという概念がなくなるという意味ではなく、むしろ拡張されると考えるべきだろう。論文の共著者であるマンガ評論家の伊藤剛先生の2021年10月12日のTwitterでの発言を最後に引用にしよう。
「縦スクロールマンガにも「コマ」が存在することは、誰もが認めるところだと思うけれど、同時に複数のコマからなるまとまりもある。そのまとまりとまとまりの区切りも存在するだろう。」
「そうしたなかで「ページ」という概念の拡張が必要だろうと考えた。」
「もうひとつ私見を述べると、縦スクロールと紙ベースのページマンガの比較では、とかく「見開き」という単位が重視されるが、私の考えでは、見開きは重要な単位ではない。比較検討の項目に見開きの有無を持ってくるのは疑似問題だと考えている。」
というわけで、映画とマンガについての考察をしながら、フレーム、コマ、ページと役者をそろえたところで、結局、「映画的」なマンガって何よ?ってのは、まだまだ考え中(続く?)。
(2022.5.4)
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