余白の発見その2
前回の「余白の発見」には自分でもよくわからないところがあって、今回はそれを解消できればいいなと思っているけど、どうなるか。とりあえず「間白」「コマの多層構造」「フレームの不確定性」について、もう一度考え直していく。
おさらいとメモを兼ねて、まず「間白」については、コマとコマの間の空白・間隔、という程度の認識でいいだろう。「コマの多層構造」はアニメのセル画が想起しやすい、それもデシタル。だから幾層にも重ねられる。基本的にコマが軸になっていて、背景(実物の風景とか心象風景)、モノローグなどのフキダシの外の言葉(内面)等々の階層に分解できるし、その上で各層のストーリーを追っていくこともできる。マンガの紙面というものが、いくつもの思考の重なりであることを明らかにした感じ。「フレームの不確定性」は、マンガに映像理論を援用する手続きとして考えられたマンガのメディア特性のひとつ。アニメのセル画というならば当然映像としても動かせるわけだが、動かされるフレームは、コマ毎なのか紙面一部・全体なのか判然としない。この曖昧さが不確定性と名付けられた所以。実際に読者はマンガを読むとき、コマを追うと共に1頁単位あるいは見開き単位で紙面全体を眺めている、この読み方も含めた上で、ではこの視線をカメラに喩えたとき、そこに映される絵にはどんな映像理論が当てはめられるかってのは、これからの課題かな。まあ別にその理論を用いる必然性はないんだが(提唱した伊藤剛自身も映画理論の援用には慎重である)。論者個々に具体例は挙げられているけど、まだ散らかってる状態でまとめられてはいない感じ。
私がこだわっていた立体視は、平面性を殊更強調するマンガのメディア論への違和感に基づいているんだけど、時に棚上げしとく。書いてるうちに必要になれば取り出そう。で、前回触れようと思ったけど止めた具体例の一つがある。くらもちふさこ作品だ。「天然コケッコー」くらいしか読んでないけど、この一作を読みすすめていくだけでも、間白についての考察が十分に成立しそうなんで、それを中心に、再び間白について考えていく。
1 間白の喪失
「天コケ」のコマ割
いつ頃からかはわからない(「おばけたんご」から?)、その辺はくらもち作品の熱心な読者が詳しいだろうけど、「天然コケッコー」(以下「天コケ」と略す)は、すでに間白のないコマ構成が成立している。ネームの段階のコマ割がそのままコマ構成になっていると想像していいだろう。線によって区切られた空間が、そのまんまコマになっている。実験的でもある。コマが並んでいると言うと、コマはもちろん、コマとコマの間にある空間も同時に思い浮かぶだろうけど、つまりコマ構成はコマと間白がセットになっていると考えていいと思う。どちらも無視できないのは間違いない。では、その間白がないってことは、これはどう考えればいいだろうか。これは読めば瞭然、コマ枠の線そのものが間白として機能しているのである。
では、「天コケ」のコマ枠をざっと眺めてみると、大きく4つの時期に分けられる。初期の中太枠、細枠、再び中太枠、太枠、という流れである。「天コケ」以降の作品は極太枠になっており、ここまでいくと黒い間白という感すらある。この変遷が、ではいかにして作品に影響を与えているかっていうと、実はあまりない。細枠〜中太枠の太さでは特に変化がない。大きな違いといえば、回想場面のコマ枠の扱いくらいだろうか。
「天コケ」と同じ回想場面のコマ枠は他の作家でも見られる(椎名軽穂「君に届け」より)
モノローグは枠で囲まれることも多い(二ノ宮知子「のだめカンタービレ」より)
おかざき真理はコマを重ねる描写が多い(おかざき真理「渋谷区円山町 放課後」より)
回想場面は、他の作品も作家によって区別される。コマ枠を点線にしたり、角を丸くしたり、間白にトーンを貼ったりベタで塗ったり。間白がない「天コケ」では、細い線が枠になる。あるいは細枠の時期に枠線がトーンで彩られたくらいだ。つまり線の太さは意識されているということになるが、演出の上で、大きな障害はないように見える。
しかし、枷がないわけではない。少女漫画といえばモノローグだが、モノローグがほとんど主人公のみ、これくらいなら他の作品でもあるけど、モノローグを囲む枠がほとんどないとなると珍しい。コマの中にある言葉は時おり枠に囲まれて独立し、主人公らの言葉として読者に印象付けられる。けれども「天コケ」でそれを行うと、囲み枠とコマ枠の区別がつかない(例外はあるんだけどね。そういう時は囲み枠がコマ枠より細くなっている)。だからといって、コマの中に絵と一緒に言葉があるんだけだと、言葉の印象が絵の情報にまぎれて拡散しやすい。48話「大沢のキモチ」と49話「右田のキモチ」は、それぞれ主人公の彼氏・大沢と主人公・そよの視点で描かれるが、48話には大沢のモノローグが一切ない。彼が一人で帰宅する姿を追うコマでも、景色や彼の表情が描かれるだけである。49話になると、途端にそよの言葉が溢れてモノローグ一杯になる。基本的にフキダシの外にある活字(もちろん擬音などは除く)は、そよの言葉なのである。だからモノローグの囲み枠を必要としない(他のくらもち作品でもこれは貫かれる傾向にあり、各話の主人公のモノローグが中心となっている、作風っていうものだろう)。主人公の言葉を特別なものにすることで、囲み枠とコマ枠の混同を避けている。
で、これが一番大変だったりする、コマの多層化である。コマの重層感覚が極めて薄いのである。だから、読む順番がわからないほどのごちゃごちゃしたコマ割というものはまずない、きっちりと引かれた線の中でキャラクターが描かれている。青年漫画の感覚に近いコマ割なのである。そんな中で主人公のモノローグが大量に置かれている。かなり禁欲的ですらある。他の少女漫画を紐解いてみれば、間白のないコマ割も使ってコマ枠にとらわれない構成をたくさん見ることが出来る。手塚治虫が描いた間白を突き破る・ぶら下がるといった遊びは、手塚自身描かなくなっていったが、代わりにコマの構成で変化を見せる方面に向かったのだろうか。