拝啓 手塚治虫様第21.5回
「GUNSLINGER GIRL」試論4 トリエラの涙は希望
試論1はこれ。試論2はこれ。試論3はこれ。
伊藤剛氏は、著「テヅカ・イズ・デッド」のキャラ/キャラクター論の中で手塚治虫「地帝国の怪人」の耳男という主人公の設定が相田裕「GUNSLINGER GIRL」の義体の設定に通じていると触れながら、キャラであることを自覚している義体に「キャラの自律性」を見出し、「GUNSLINGER GIRL」が抱えている矛盾が作品を歪にしているかもしれないとほのめかしている。著書の中の言葉を要約すると、それは、作品のコマ割の変化に見て取れるというのである。稚拙ながらも映画的モンタージュや構図を捉えようとする初期の作画が青年漫画的コマ割に変わり、「5巻目になると、今度は、一転して奇妙な構図が取られ、機能のはっきりしない間白の省略といった、たいへん居心地の悪い表現が前面に出されるようになる。」。
この「奇妙な構図」は、おそらく第26話「ピノッキオ(5)」以降のコマ割を指していると思われる。「青年漫画的コマ割」というのは、簡単に言えば矩形のコマをきちんと並べてストーリーを紡ぎキャラクターを描いていくことだが、確かに第26話から唐突にコマの並べ方に変化が現れている。「間白の省略」とは、つまりコマを重ねて並べ、断ち切りを多用し、キャラクターをコマの中に収めず複数のコマに被せて描いたり、モノローグを頻繁に使ってキャラクターの内面を言葉にしてみせる、少女漫画的とも言えるコマ割になっている。ペトラ前後の義体の頭身の変化以前に、本作はコマ割の次元で大きな変化を見せていたわけである。
ピノッキオとトリエラの戦いについては試論1で触れた、そこで「この作品はなお「萌え」という観点であるいはキャラ/キャラクター論として語られていることに、私は漠然と危惧する。」と述べながら、今からそれについて書くことにちょっと抵抗があるけれども、記憶を失っていくアンジェリカの死を目撃した時、これは避けて通れない主題なんだなと痛感した。前回はキャラ論を避けつつ義体の記憶について考えたわけだが、今一度記憶とキャラの関係を10巻を中心に考えていきたい。
エルザの遺産
人間版の義体として登場したピノッキオ。彼とトリエラの戦いを描いた第15話と第26〜27話を義体と記憶を鍵に再読すると、人間と義体の違いが明瞭になってくる。義体として全身を改良しバージョンアップ可能なトリエラと、殺しの記憶を重ねているピノッキオ。最初の対決を描いた第15話では、ピノッキオの予測不可能な動きと瞬発力に圧倒されたトリエラは、訓練と義体の改良によって再戦に備えた。一方、結果的にトリエラに敗れることになったピノッキオの敗因もまた、トリエラの改良に影響されている。
その前に彼の記憶に限れば、トリエラに止めを刺さなかった第15話と再戦で通用しなかったナイフ投げが、義体にはない感情と記憶による思考の支配・キャラクターとして彼の言動を縛っていたものが、人間である、ということに拠っている。彼の名前に象徴されている作り物としての殺し屋も、キャラクターの普遍性には抗えなかった。義体のような殺し屋になりきれない・つまりキャラになりきれなかったキャラクターの死が描かれる。
さて、ではトリエラに施された改良とはなんだろうか。社会福祉という名目で活動している公社にとって、義体が義肢の開発等に役立っていることは、9巻で実際に解説されているが、訓練以外に彼女を鍛えたものが義体・エルザの犠牲である。
第4・5話で語られるエルザの死の真相は、ストーリーとしては予測可能な範囲ではあるが、そこに担当官に対する義体の無意識裡の脅迫を中心に持ってくることで、フラテッロ(担当官と義体)を結びつけるものが一筋縄ではいかない感情であることをはっきりさせる。愛してくれなきゃ殺します、というヘンリエッタの解説は、しかし一方で、自分達の設定を強く意識させるものでもあった。トリエラによく見られる、義体であることを強調する発言である・所詮作り物・コントロールしたければ薬の量を増やせ、といったようなトリエラの自虐的とも取れる言葉をヘンリエッタは復唱するように、涙ながらにエルザの死を語った。普通の女の子になることを強要されながらも、痛みもすぐに消える機械の身体の上に素手で人が殺せると言う彼女は、義体である自分の存在を担当官よりも意識していた。おそらく読者よりも強く意識していることだろう。彼女達の存在を読者がいかに憐れんだところで、彼女達は義体という人間とは違った存在であることをしつこいくらいに訴えているからだ。
1巻で繰り返されたキャラ性の主張は、彼女達の存在の萌えといった属性への働きかけに対する抑制にもなっていたと思われた。web上で今も語られ続ける義体という設定への戸惑い。詳しくは試論1で述べたが、かわいらしい少女への感情移入を妨げようとするかのような作劇の数々は、エルザの犠牲を持ってひとまず収束することになる。以降は各義体固有の問題に回収され、物語からの問い掛けはうやむやになる。いや、いつまた自分達が作り物・偽物であることを前面に語り始めるとも限らないが、社会福祉公社が戦うべき相手であるテロ組織側が登場回数を増やしていくことで、義体に留まっていたストーリーの軸が、義体側(トリエラを中心とする)←→テロ側(ピノッキオ)という対立軸に移行する。比較対照を得ることで、義体とピノッキオの違いが曖昧にされれば、キャラとキャラクターの違いも曖昧になっていく。2巻の第7話から、物語は義体をキャラクターとして扱う様相を呈していくと、エルザの死・キャラとして葬られた彼女の存在の意味が忘れ去られていった。
そんな中でもトリエラだけは作り物である自分の存在を訴え続けた。4巻第22話で明かされた彼女の義体以前のエピソード・もちろんそれ自体は第3話で彼女自身の口から語られてはいたが、殺害ムービーで撮影されながら切り刻まれて殺される直前を救出された壮絶な過去は、担当官ヒルシャーがその事件の捜査に関わっていた事実により、トリエラを見詰める彼の想いが読者のそれと似通っていることも必然だろう。右足を切断された状態で助けられた彼女は、義体となり、手術の場面で右足を交換される場面が描かれるという念の入れようである。「そこらの変質者と一緒にしないでほしい」という医師のセリフは、殺害ムービーを楽しむ犯罪者とわれわれは似て非なるものだと語るに落ちているわけだが、この物語の義体をキャラクターとして楽しむ読者も、きっと同様の言い訳をしているかもしれない。
キャラという自覚を持つトリエラが、エルザの遺産に救われたのは偶然ではあるまい。もともと眼球が弱点だといわれていた義体である。エルザは銃によって眼球から脳に達する裂傷を負っていた。今後の課題として眼球の強化が、この時図られたわけだ。物語のどの時点で何話目でそれが果たされたかは不明だが、脳以外は交換可能らしい義体という設定は、エルザの挿話によって完成された。
ラシェルの遺言
トリエルとヒルシャーの関係を語るに、ラシェルの存在は無視できない。ペトラ登場以降、キャラクターの「過去」は、括弧書きで強調しなければならないほど物語の行方の鍵を握る存在にまでなったように、「ラシェル」は、二人を繋ぐ絆と言ってもいい。また、長期連載がために忘れがちな初期のエピソードを回想場面で読者に思い出させることで、増していくキャラクター性の厚みに加え、作品の全体的なストーリーも強く意識させる結果となれば、もう一度最初の巻数を読み直せざるを得ない、という読者もいるだろう(まあ、私のことなんだが)。
というわけで読み直したわけだが、二人の関係が10巻に向けて着実に深まっていくことが理解できたような気がした。
試論3で亡霊(ファンタズマ)に触れたが、この作品は副題を追っていくだけでも十分に面白い連想(妄想とも言う)が可能である。ラシェルを巡る挿話の副題からやってみよう。
第22話「She is a flower that blossoms in bona fides」。エキサイト先生の手を借りるに「彼女は善意で咲く花です」と訳せるだろうか。この挿話は、ピノッキオ戦に備えて身体を鍛えるトリエラと、ヒルシャーとラシェルの物語が交互に展開され、ラストでトリエラの涙に収斂される構成をとっている。ヒルシャーがトリエラに向ける眼差しに込められた感情の一端が知れる挿話なんだが、ラシェルがトリエラに託した希望がほの見えるだけに、トリエラの涙に特別な思いを抱いてしまうきっかけにもなっている。この挿話は、そのまんまの副題である第55話「善意の花」に繋がっているのは言うまでもない。
第54話から第56話で展開されるヒルシャーの過去は、トリエラがはっきりと彼への愛情を自覚するという、従来の「作り物の自分」ではなく、一人のキャラクターとして自律を決意するに至る重要な挿話である。「善意の花」では、マリオの告白を聞いて涙するトリエラの姿が印象的だが、副題に目を向ければ、マリオの娘・ミミの台詞が注目に値する、「トリエラはさ なんか応援したくなっちゃうんだよね きっと物語のヒロインなんだよ!」(10巻101頁)。
トリエラに焦点を当てた第3話の題が「THE SNOW WHITE」、つまり白雪姫である。トリエラが物語のヒロインなのは、作品にとって初期から決まっていたことだった。白雪姫について調べてみれば、初期の版からディズニー版までいくつかあるようだが、ここは素直にディズニー版のラブロマンスを受け入れたい。王子のキスで目覚めた白雪姫ならぬ、自らヒルシャーにキスをして目覚めるトリエラの姿は凛々しい、ラシェルの希望を胸に生きようと決意したわけだ(余談だが、トリエラが白雪姫に例えられるのは、彼女が殺されそうになったところを王子ならぬヒルシャーに救われたというエピソードのみならず、一説に王子は死体愛好者だったというまことしやかな説がWikipediaに載っている。福祉公社が本来死んだはずの少女たちを集めて義体として戦闘少女として甦らせるのも……)。
トリエラがソファでヒルシャーに抱きつく場面の背後に大きく掲げられた絵画がある。実は長い時間をかけてどんな絵か調べたことがあった。似た構図の絵は見つかったものの、画家や絵についての情報を得ることが出来ず、今では作者に聞くしかねーよ状態なのだが、これ(10巻128頁)はなんの動物だろうか。牛かな。羊だとすると、実はまた連想が繋がっていく。
第36話「The sheep and the goats 」。直訳すれば羊とヤギだが、要は善人と悪人ということ(マタイ福音書より。英語でも使われるフレーズ)であり、これは劇中でサンドロが善い大人、悪い大人という話をしていることからも察せられる。この挿話では、前話から引き続きテロ組織に命を狙われているグエルフィ検事の護衛が描かれる。善と悪を裁く法曹界の彼女とヒルシャーの関係の始まりでもあり、それを快く思わないトリエラが描かれるわけだが、ここでは検事の「私は人の善意を信じます」という宣言が鍵だろう。第55話への含みはもちろんのこと、グエルフィにラシェルの面影を見るヒルシャーの感情も考慮すれば、彼が彼女に惹かれていくだろうことも想像に難くない。(微妙に対比されるヒルシャー・トリエラ組とサンドロ・ペトラ組。作品の神とも言える作者が、羊飼いよろしく二組を右手(羊)に寄せるか、左手(ヤギ)に寄せるか、あるいは。今後の展開の楽しみの一つである)。
絵の話に戻る。何故それほど背景の一小道具に過ぎない絵に執心するのかと言えば、5巻でクリスティアーノの運命を背景の絵で暗示した経緯があるからだ。だから今回も必死に探したのである。副題のいくつかに聖書類からの引用があることも加え、作者のイタリア趣味にとどまらない嗜好が伺えるわけだが、ざっと見ただけでも、そうしたこだわりが背景の緻密な描写に注がれている・描線が増え画面全体が濃くなっていることがわかるだろう。1巻と10巻を比べると一目瞭然である。
これは同じ建物の描写においても、同様に見られる事態である。写真を加工したと思しき初期の背景は、6巻あたりから路地の隅々にまで線が行き届いた濃さになっていく。現地を取材したと思えるほどの書き込み具合、曖昧にされ勝ちだった町の店名がはっきり描かれたり、室内の調度品の緻密さは巻を追うごとに精度を増していった。キャラクターの表情も描線が増える。目鼻の陰影が強調して描かれる分、表情の表現の幅が広がった。
これまで目立っていた背景の絵画や銃器はもちろん煙草やライターの銘柄などの描写が、全体的に細かく描かれるようになったために、特別強調されることがなくなっていった、周囲の景色に溶け込んでいったとでも言おうか。第18回で浅野いにお「ソラニン」の写真を用いた背景を例にしたが、写真と違和がないほどに画面全体の調和がとれた絵は、描写にリアリティを醸すことだろう。だが、同時に、「ソラニン」と同様の問題を起こしかねない。
話がそれてしまったので、その問題とやらは次で書くとして、ラシェルの希望は、グエルフィとトリエラに引き継がれる。二人とも当然ラシェルの記憶までは受け継いではいない。彼女たちを繋いでいるのはヒルシャーの記憶である。試論3で述べたとおり、この作品世界の義体は、記憶がいくらでも挿げ替え可能で消去も思いのままだ。極端な話、外貌はトリエラだとしても、中身はいくらでも変えることができてしまう存在である。自分なりにキャラ/キャラクター論を援用すれば、交換可能な記憶の持ち主はキャラであって、読者にしろヒルシャーにしろ、他の人間がいくら感情移入したところで、キャラクターにはなり得ない。つまり、お人形のままでしかない。記憶が消えてしまうことを恐れるヘンリエッタも彼女を慰めるトリエラも(58話)、死という感情そのものが、いつ何時変化したとしても不思議ではない。感情そのものが作り物なのだから、彼女の担当官への愛情も作り物でしかない。
全ては作り物。だからといって、自分の感情まで作り物とは思いたくはないし、作り物だからと言って偽者だと言う訳ではない。彼女たちの感情は本物だ。読者が義体に抱く感情に偽りがないように、担当官が義体を慈愛する動機も少女のお人形遊びとは異なるだろう。けれども、トリエラはキャラである自分とキャラクターになろうとする感情を悟った。キャラであることを受け入れた彼女は、羽ばたく自由が無いにもかかわらず飼い主から愛されていることに満足している鳥籠のカナリアよろしく、「鳥籠に還る」(56話副題)のである。
(キャラ/キャラクター論とマンガの話は、最近あまり聞かなくなってしまったけれども、物語の登場人物の役割みたいなもんを考える上では、とても重宝すると思う。私の場合は単純化するきらいがあるので、正しい論とは言えないものなんだが、乱暴を承知で言えば、これはオフ版第4号のあずまんが大王の感想でも書いたが、キャラは取替え可能のもの(もちろん消すのも作り直すのも自由)、キャラクターは変化していくもの(成長でもいい)と捉えている。「ガンスリ」の義体は、取替え可能な身体だけでなく記憶や知識まで操作出来る存在なので、キャラそのものである。だが、キャラの中には成長する部分もあり、トリエラの場合は、ヒルシャーへの愛情がそれに当たる。では、キャラとキャラクターがどうストーリーに影響を及ぼすのか。これは義体になったトリエラがヒルシャーに向けた最初の反応「あなたは誰?」に彼が何を感じたかを想像すれば、なんとなく理解できるのではないか。ストーリーは、複数のキャラクターの記憶が織り成す織物のようなものである。モノローグにしろセリフにしろ、ナレーションにしろ、誰かの言葉や仕種によって紡がれていくのだから。この作品も複数の義体の言葉によってストーリーが構築されている部分があるわけで、そうして刻まれた言葉が一片ずつ重なり、かけがいのない存在になっていく。読者は彼女たちのキャラクターを、そんな編みかけの断片から想像して、一人ひとりのキャラクター性を構成していくのだろう。それが萌えであり倫理的な批判であり物語への没入度であり、個々の感想なのだと思う。)
長くなったので続きは試論5に持ち越す。精緻になった描写は物語やキャラ/キャラクターに具体的にどんな影響を与えるのか。背景の一場面などを例にしながら引き続き考えていきたい。
(2009.9.27)
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