「少女のメランコリー」
小学館 Bethucomiフラワーコミックス「少女のメランコリー」より
タアモ
最近(2007年夏)のタアモ作品は物足りない。5冊目の短編集「我輩は嫁である」は面白かったけれども、主人公の少女が感じる心の痛みみたいなものが感じられない。ほんわかしすぎているというか、雰囲気に流されたまま物語が進展していく。だから読後の余韻が写らない。そんな時は、タアモ2冊目の短編集「少女のメランコリー」を思い出す。
表題作「少女のメランコリー」は、女の子の友情物である。男の子に恋する変わりに女の子と仲良くなりたい、という単純な設定の入れ替わりではない。女の子同士の友達付き合いに絡んだ、複雑な感情が渦巻く心理劇である。冒頭、卒業写真を笑顔で撮る彼女達の姿に、当時を懐かしむナレーションが被さると、物語は必然的に過去を描いているっていうお墨付きを得られるわけで、劇中の・なんか今と違うという女子高文化の描写への違和にもある程度の予防線を引ける。主人公をも客観視する距離感の取りかたは、そのまんま読者にもすんなり浸透することで、現役学生の読者のみならず過去の学生時代を思い出せる効果もあるだろう。この卒業写真の撮影場面が、ラストをきれいに彩っている。そんなわけで本編には携帯電話も登場しない、先生も少ししか登場せず、彼女達の家庭環境もほとんど描かれない。学校という舞台・もっと小さく教室だけの世界を描き夾雑物を排したノスタルジックな面もある作品である。
ちょっとつんと澄ました転校生・北原泉がやってくる。クラス替え後の春、クラス内にいくつかの仲良しグループが形成されようとしている時期である。主人公・辻川英子は、彼女の人を寄せ付けないような異質さにたちまち惹かれて友達になりたいと強く望む(これが百合マンガだったら、あっち方面に話がいくんだろうな……。でもこれは正統な少女漫画なので。いや、正統って何?と突っ込まれてもわからないが)。けれども、お昼休みになっても声を掛ける勇気を持てない英子は、北原の様子を遠くから眺めるだけだった。直近の問題に、むしろ彼女は悩むのである。
中学時代からの親友・歩と、歩が引っ張ってきた吉田。英子はこの3人グループに属していたものの、どうも吉田と馬が合わない。しかも歩は吉田と仲が良い。親友を取られたという嫉妬が彼女自身を苦しめる。
北原は描かれ方からして実にはっきりしている。黒髪だ。今は黒髪ってだけで意志が強いって表現が可能なのかね。髪の毛の色がわかんないキャラクターっていっぱい出てくる。女子高生たちが主な登場人物だから、おそらく茶髪ってだけなんだろうけど。で、北原がはっきりと意見を言う、ここで小谷の横柄さが強調される。北原は小谷と親友だった児玉と親しくなるんだけど、小谷が授業中にもかかわらず大声でくっちゃべっているところを北原が一喝して黙らせてしまう。小谷と北原の確執の契機として、また英子が北原への憧れを強固なものにする二つの意味を成す場面を同時に描くってのが上手い。一見平凡だけど、こういう場面がないと、英子の思いは単なる一目惚れになってしまうし、何より波乱がない。英子のモノローグで話はすすむけれども、元から遺恨があるらしい小谷と児玉の間に異端者としての北原を注入することで、物語は水面下で、他のキャラクター同士の諍いを準備するのである。
それは、英子が北原と仲良くなれたことで浮かび上がってくる。孤立していたもの同士といった感がないわけではない北原と児玉は、すでに教室移動等で共に行動をすることが多かった。この間に英子自身が割り込むわけである。最近まで自分と歩の間に入り込んできた吉田に苛立っていた自分が、当の吉田と同じ立場に陥るわけだ。「私が吉田さんを実はすごく嫌がってたみたいに――」北原も自分を嫌っているのではないか。なんという繊細な乙女心であろうか。自分で書いてて恥ずかしいよ。
誰もが経験するだろう友達との感情の行き違いを、3人を一単位として明快な構成にしたからこそじっくりと描ける心理描写なのだ。英子―歩―吉田、北原―児玉―英子、小谷―児玉―北原……学校という狭い世間しか知らない彼女達は、さらに教室の中、さらにまた仲良しグループと関係を小さく小さくしていってしまう。「この頃の私達はこの小さな学校が全てだった」という冒頭のナレーションが物語の土台であり主題でもあり、その意味が理解された山場の展開である。
小さな関係性の亀裂を少しずつ描いて見せることで、実はそれが全体に悪影響を与えていたわけである。このぎくしゃく感は同時に、亀裂が修復されれば全体も良くなっていくかもしれないという予感を生むし、説得力も得る。小谷グループが児玉をいじめる現場に遭遇したものの、怖くて動けない英子は、そこで同じく現場に来た北原が児玉と小谷の間に立ちはだかり、授業で小谷を一喝したように、小谷の本心を言い当ててしまう。俄かに困惑する小谷、そして(以下ネタバレなので略)。
ところでしかし、そうしたグループの関係をモノローグで説明しすぎな面がないとも言い切れないんだけど、描写の上でわかりやすく表現されている距離感にも言及しておく。これもやっぱり冒頭の写真撮影の場面からのつながりなんだけど、大勢を写すために、女の子達みんなが寄り添うんである。表紙も何人かが寄り添って立っている絵なんだけど、彼女達の関係がそのまんま距離感として表現されているのである。だから、英子が親友の歩や吉田の関係に苛立ちを覚えるのも、この距離感が大事になる。机をくっつけて昼食を食べるにしても何にしても、英子は歩と吉田の二人を常に見る描写が続く。だから、英子が阻害されているかのような錯覚さえ生じかねないのだが、この感覚そのものが英子の嫉妬心から来ているわけだから、歩・吉田と英子の構図によって、読者をして英子の嫉妬を体感してしまう(でも、傍から見れば3人はいつも一緒にいるように思えるわけで、英子の独りよがりというかひとり相撲ってものが北原と仲良くなっていくことでちょっとずつ滲んでくる)。読者が学生なら共感するだろうし、そうでなくても、その気持ちを十分理解できる描写だ。
言葉が中心とはいえ、それに頼らない構成力で読者をさりげなく劇中にいざなう物語。ラストの卒業写真は、キャラクターに感情移入した読者にとっては心地よい余韻としての記念写真になるかもしれない。
(2007.11.5)
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