「惡の華」10巻
ファミレスの二人
講談社コミックス マガジンKC
押見修造
他人からの視線・自分の視線、二つの交錯する様が画面の構図を決めていると言っても過言ではないほどに、「惡の華」はキャラクターの視線を追っていく読み方を強制される。視線を合わせずに会話を繰り広げる彼らの戯れには、厭世感すら漂う。行き場のない田舎で成長するも事件によってその地を離れて生きる主人公の春日は、日本有数のターミナル駅を控えた交通の要所・大宮でひっそりと暮らしていた。
春日が目指した生き方は、読書家としての特別な自分を捨て、群れに紛れる平凡な人生だった。本を読まずクラスメイトを軽侮せず、目立たず、かといって孤立せず、新天地で息をするのさえ遠慮するように生きていた。彼は、そんな自分を「からっぽ」だと表現したのである。からっぽ。その発想自体が、すでに周囲の何かしらに満ちている他人とは違う・特別な自分であるという隘路の出発点であることに気付かずに!
とまあ、もっともらしい前置きはともかく、10巻の祖父の危篤・葬式により、地元に帰った春日が、中学生時代の春日・仲村・佐伯の三人の間で起きた出来事に最も近しい木下と再会する一連の場面を分析してみたい。というのも、この春日と木下の言動には、これまで描かれこれからも描かれていくだろう、この作品のキャラクターの心理を読み解く上で面白い描写が凝縮されているからである。
10巻64頁から97頁め・約30頁にわたって描かれる春日と木下の対話はファミレスを舞台に行われた。店に入るとゲハハと笑う若者たちや家族連れと思しき客たちの群れが描かれると、その中でぽつねんと携帯と向かい合う・傍から見れば他の若者と変わらないような姿の木下を春日は見つける。待ち合わせていた二人。木下はあらかじめ視線の先を携帯と定めたかのように春日を一瞥することもなく、座ればと促す。
基本的に二人の視線は交錯しない。一方が一方を見つめることはあっても、示し合わせたかのように偶然目が合うこともないほどに不自然な対話である。互いに向かい合っていながらも、こうも目を合わせようとしない演出は、二人の目が合ったときの印象を否が応でも強調する。
春日が座席に座る際の擬音に注目すると、重い身体を引き摺るような「ズズ」という衣擦れが小さく響く。
佐伯と再会し、レストランで昼食をしながら対話をしたときの春日も重苦しい足取りだった。胸元を大胆にさらし、異様に明るい口ぶりの佐伯に違和感を感じているのは読者だけではない。春日は、「コツコツコツ」と軽い足取りや「ファサ」という慣れた座り方の佐伯とは対照的に、ぎこちなく「スザ…」と椅子に腰掛けていた。
もちろん「ズズ」という擬音は、ファミレスの長椅子の端に腰を掛け、そこから座席の真ん中にまで腰を滑らした際に発した音とも読めるわけだし、実際にそうだろう。だが、立ち上がった木下に「がば」っという勢いを想起させる擬音が付くと、二人の対話に臨む姿勢がすでに表現されていることがわかる。
様子をうかがいつつ相手の出方を見ている春日はどこか遠慮気味だ。地元に顔向けできなかったはずの彼が、事件から3年で戻ってきた気まずさもあるだろう。木下にとっても、現場を目撃されたら面白くないはずだ。けれども、彼女は堂々としているそぶりを見せ続けていた。
若者のバカ騒ぎを対話の合間に差し挟む。「バカ」と形容したけれども、彼らが実際にバカなのかどうかは問題ではない。そう読めてしまう読者の心理が、この二人の対話の特別さを意識させる。何が語られるのか、どこへ言葉が向かうのか。沈黙がほどよい緊張感を生む。「ゴン」とジュースを飲むのも半ばにコップを置く。「がば」同様にどこか動作に荒さがある。堂々とした態度が、虚勢であることを匂わせてくる。
漫然と机ともコップともつかないところを見詰める木下に対し、春日は木下の語りを聞き入るように、その目も彼女の顔を正面から捉え続ける。70頁では、彼女の顔が次第に大きく描かれ、春日の顔もアップとなり、その目がさらに強調された。木下の口から佐伯の名が出たからだ。
71から72頁で二人の視線が交錯するのだが、事件以来佐伯に会ったのか確認する木下の春日を見詰める視線に対して春日がどこを見ているの描かれない。顔の下半分・目をあえて描かずに、彼の視線の定まらないままを描くと、ああ、彼は顔を下に向けたか視線をそらしたな……と思わせる。実際、彼は木下の目の前にあるコップを見ていたらしい。
やがて両手で顔を覆って、木下は泣き崩れた。泣いている自分に驚き、笑おうとする彼女。若者たちの笑い声にどこか空々しさを感じるのは彼らがただの群れだからとか、やはりバカだからとかという理由だけではない。笑わなければ、この窒息しそうな閉塞感に飲まれてしまうからだ、というのはいささか的外れで行き過ぎた感想なわけだが、暗い雰囲気になりそうな場の空気を無理やり笑うことで覆そうとする現場を、春日は常盤の彼氏だった晃司との交流で経験していた。
泣き咽んでしまうことに違うと言いつつも、木下は事件によって春日と仲村を追い出し、佐伯を止められなかったという顛末に、自分は地元に取り残されただけだった、という薄々気付いていた事実を思い知った。76頁の木下の告白とも取れる心の叫びの合間に、またも若者たちの笑いが挟まる。もはや空虚感しかない、乾いた声。
自分の本心をさらけ出す木下を目の当たりにすることで、春日は木下と対等の立場になれたと感じる。そっと手を伸ばして彼女の手に触れた。
さてしかし、この作品を初期から眺めると、絵柄の変化は当然のこととして、擬音が減っていることに気付かされる。ここまでの対話においても、現実ならばあっておかしくない衣擦れも周囲の客たちの声も外の往来の声も、ほとんど音として二人の間に入ってこないどころか、春日が佐伯や仲村と接するときに盛んに描かれたドキドキといった心理音すら描かれない。春日の心理は、ちょっとした仕草の変化や息遣い言葉遣いの中に内包され、彼らを取り巻く空気の変化が、彼の内面を代弁するかのように写実され、彼の心理は、目の描写に集約されていった。木下が仲村の居所を知っているという言葉が二人の間をすれ違い続けていた視線を衝突させると、ようやく互いの顔を見つめ合うことになる。
もちろん二人は、分かり合ったようでいてそうではない。中学生時代は佐伯を介しての関係であり、今は仲村という言葉を介して向かい合う。二人の距離感はその程度でしかないし、対等と感じたのも錯覚に過ぎず、そもそも同じ世界を生きてはいない。図らずも外の世界に飛び出せた春日と、地元に「置いてけぼり」の木下。この世界で生きていくしかない覚悟をしているかのように、彼女は春日の下を去っていた。
そして、その足音は「ズサ…」という擬音を伴っていた。重いのだ。荒々しさが消えた彼女の足取りは、とても重いものだったのだ。佐伯がヒールの高い靴でコツコツカツカツと歩く一方で、木下の重さは、地元から離れられない重力を表現しているのかもしれない。
心理音がほとんどなくなり、擬音も減ることで、劇中の心理描写はキャラクターの表情の微妙な変化や対話の間などに置き換えられ洗練されていった。わかりやすさから遠のいていきながら、この作品を継続して読むことを通して、読者は各キャラクターの心理を読もうとする意志を知らず育んでいたのである。木下との再会は、埋もれていた仲村への想いを呼び覚ますとともに、より一層、春日という意識を読み解こうとする読者の心理をも研ぎ澄ましていくのである。
(2014.2.8)
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