「エイリアン9」

秋田書店 ヤングチャンピオン・コミックス

富沢ひとし



 文法の説明や表現の解析にはもってこいのマンガ記号論なるものがあって、この作品もそんな切り口から語られることが多い。というのもすでに指摘されていることだが(「エイリアン9」を鍵に検索すれば、それを踏まえた上での評論にいくつか行き当たるはずだ)、流線の排除や残虐な場面の中にあるかわいらしい少女の描写などが、これまでの漫画の読み方に浸された私たちにとって非常に鮮烈な興奮をもって投じられ、ひょっとしたら新しい表現の先鞭となる作品ではないかといういささか大仰な評価があり多くの読者が実感したであろう・何かとんでもなくすごいものを見てしまった・表現の変革期を目の当たりにしたという昂揚感に、漫画読み・漫画マニア等などは大騒ぎしたわけだ。ところがしかし、実際にこの作品がどれだけの読者に支持されたかを思うと、結局このキャラかわいいという段階にとどまることが大半で、私も漫画読みの評判を聞かなければ到底手にすることさえ憚られる、すなわち俗に言うところのロリ絵なのである。だから私は絵について語らない、語れない。なにより私がこれを支持する理由は物語の編集の妙であり、漫画表現上の解説はプロに任せて、ここは私流「エイリアン9」における物語構成の品を思いつく限り書いていく。
 再読した印象は初見と違った(当たり前か)。もっと緻密な話だったと思っていたら、これが結構密度が薄い。実際に一コマが大きく大抵が二段・三段割ですらすら読める。話も飲み込みやすいし(謎はいくつもあるけどね)、セリフもいたって普通で奇をてらうこともなく登場人物の大半が小学生ということもあってわかりやすい(川上弘美の小説を思い出す、ひらがなを多用しながらも表現しえる奇妙さ)。さりとて展開は一本調子でなく複雑に絡まって説明されない舞台設定・背景もあってか、わけわからんうちに物語に引き込まれる。というのも、この作品は物語の見せ方がしたたかなのだ、つまり前述した編集の妙が後半になっていよいよ発揮されてあっというまに山場へ加速させることに成功しているわけである。
 1巻99頁からの展開を例に挙げると、まず少年の自己紹介からゆり襲撃まで4頁と丁寧に描き、戦闘場面からエイリアン回収にも頁を割いている、計8頁。次のゆり襲撃場面ではこれが簡略されていて、二つの襲撃を計10頁。当たり前のような話だが、なかなかこれが難しい。というのも、一連の出来事を、さらに言えば一つの動作をどれだけ描くかというのは考え始めると答えが見つからないものなのだ。この文章を書くときでさえ、なにから書いて何を書かないか、どれだけ書くべきかという(少しだが)構成に気を遣い、もっとも訴えたい言葉をどこにおいてどう伝えるかを読者の立場まで踏まえて考えるとなると容易な作業ではなく、たちどころに手が止まってしまう。まして同じような描写に同じだけの文章をその都度費やしていたら文章はどこまでも長くなってしまう(……しばし自省中)。漫画となれば当然冗長な展開に堕しやすい。105頁では麻酔弾を撃たれたエイリアンが地面に落ちる描写に3コマ使うが、次はいずれも2コマで、1コマ切っているわけだ。これはほんの一例で、起承転結でいえば起と結しか描かないような(時には転結なんてのも)展開が回を追うごとに顕著になっていく。一方で描くべきところはきっちりと頁を費やしている。2巻で象徴的なのは、ゆりが記憶を取り戻す場面だろう。くみとかすみがさんざ苦労して救出したボウグをかぶせて感動の対面と思いきや、「なおった」の笑顔1コマでおしまいで、次の話がはじまるという潔さ……というか冷酷さ。結のあとの余韻さえばっさり切り落としてしまう。
 これこそ映画的だと思う。映画素人の私が差し出がましいことを言ってしまうに反感を覚えるだろうが、構成力とは言わず「編集」という言葉を選んだのもそのためなのだ。従来映画的な構成と言えば、モンタージュのような細かくリアルな動作の描写に代表される躍動感溢れた・迫力に満ちた展開を指すことが多いし、多くの読者もそれを巧いと感じていた。ところが、そうした描写を推し進めるにはコマ数を増やした精密な仕事が要求され、たとえコマ数を増やさずとも画面を真っ黒にせんばかりに描き込まれた細密画が増えたし、流線も多用された。まるでCGばっかりの映画のようだ。けれどもそれだけがリアルな描写でないことは自明のはず、そのはずなのだが。(やっぱ大友克洋はえらいな)
 この作品は、あえて流線を捨てた。そのために3巻110・111頁のかすみを取り押さえる場面はモンタージュを用いながらまったく覇気のない静けさで関連のないコマを並べただけのような、つまり連続性が希薄になっていて、展開がもどかしい・歯がゆい。作品全体がこんな調子ならつまらないだろう、なにより画面に感情や雰囲気を込めにくい。そしてスピード感さえ失いかねない。この作品がそこそこのスピード感でもって読み進めることができるのは、怠惰な描写を避けた徹底的な編集・必要以上に削られた展開にあり、同時に次の頁にはもう何があるのかわからない緊張感さえ生むことに成功しているわけである。個人的な話、北野映画の突発的な暴力の描写みたいだ。(私が北野映画が好きな理由のひとつに編集の不思議さにある。監督自ら編集に携わっているだけあってノリはコントや漫才のようなのだが(だからすべる事も多々あるけど)、物語の旋律に一度なじめばそれだけで十分面白く感じてしまう。)
 そういったわけで、松下アキラなる人物も1巻最後で意味深に登場しながら全く生かされず無視されてしまうのも、なんとなく納得してしまうのであった。


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