「アシュラ」

初出 「少年マガジン」1970年33号〜1971年22号(私が所有している版は日本文芸社より1988年発行の上・中・下巻のものです)

ジョージ秋山



 作家・辺見庸氏の著作に「もの食う人びと」という本があります。「食べる」ということをテーマに各国を著者自身が取材したルポルタージュの驚愕の内容を知っている方もおられるでしょう。知らない方に言っておきますが、これは「美食」がテーマではありません、とにかく生きるために「食べる」という、人間の本質のひとつを追究した紀行文です。
 その中に「ミンダナオ島の食の悲劇」という挿話があります。1947年まで日本兵が潜んでいた現場を取材する辺見氏と案内役である現地の老人とのやりとりが淡々とつづられているこの挿話は大変印象深いです。
 「投降してきたとき、彼らはいい体つきをしていた」という老人の話が何を意味しているのか。当時の山には獣が豊富で里芋も生えていたから、山にこもっているとはいえ食糧不足に陥ることはないので不思議ではないのですが、彼ら日本兵はあるものに食欲をそそられたらしい。それは何か。
 「アシュラ」は飢餓状態の果てに人肉を食べて生き延びる少年・アシュラの物語です。
 人肉を食べるということが道徳的にどうとか、倫理的にこうとか、人間としてああだとか、そんなたわ言を差し挟ませない状況が眼前にありまして、主人公・アシュラは人を殺して人を食べるという行動をします。それは食べられるものが人間しかいないという状況を意味しています。
 人肉食の話は死んだ人間の肉を食うことから訪れる死生観や人間観を問う傾向がありますが、この作品には生きるために人間を食うことが冒頭から虚飾なく描かれ、生きる人間より死体の数がたくさん描出されることにより、どうしようもない極限状態を表現しています。
 それがアシュラの母親にして食べられるものが「我が子」しかいないという場面を経て母親は発狂し、幼いアシュラの「食べる」ということへの執念の物語がはじまります。
 このような凄惨でやりばのない苛立ちが沸いてくるような展開もジョージ秋山氏の柔らかくかわいらしいアシュラの表情によって中和され、話自体もことさら哲学的にならないで、少年漫画らしくわかりやすいし、読後はそれほど悪くない、むしろ爽やか…と私は読んだのですが、やはり理不尽な憤りのようなものを感じられるかもしれません。
 それが「生まれてこなければよかった」と劇中で繰り返される、おそらく作者が一等伝えたかったはっきりしない主題が原因と思われます。作品の内容に沿って解説しましょう。
 アシュラは強靭な生命力で一人で生き抜きます。とある農家の残飯や食物を盗んで生きる中で、その農家も蓄えた食糧が底を尽き飢えかかります。アシュラを危険視した農夫は彼を殺そうとしますが返り討ちに遭い、片腕を切られてしまいます、アシュラは切った腕を笑顔で食べます。
 そして、アシュラは初めて人を殺します、ただ、食べるという理由だけで。農家の子を斧で殺し、その肉を焼いて食べるのです。何かを食べる少年に、農夫とその子の兄・太郎丸は色めきたち彼を襲ってその肉を食べてしまい、それが我が子であることを知った農夫は呵責に絶えられず自殺し、太郎丸は半狂乱のまま「散所」と呼ばれる荒れ果てた土地に迷いつきます。一方のアシュラは法師に出会います。生まれながらに獣と化した少年に僧は人間の心を育てようと、今後もたびたび登場してついにはアシュラに人間の心を取り戻させますが、それは後半の話です。
 やがて散所にアシュラも現れ、この無法地帯(全国的な飢饉のなかにありながら、都の公家達は荘園からの収入により華美な暮らしをしている。物語の舞台は平安時代後半とおもわれる)での権力争いや日々の過酷な労働の中で、太郎丸は当初抱いていたアシュラへの憎悪を徐々に緩和していきます。
 また、アシュラはこの散所で若狭という女性と出会い、言葉や礼儀作法を教わり、アシュラにとって母に等しい存在となりますが物語はここから急展開します、アシュラの父の登場、そして母が再登場し、何故自分を生んだのか、こんな時代に何故生んだのか、とアシュラの叫びがコマを埋め尽くします。そして両親を殺そうとするアシュラの前に法師が登場し彼を縛り上げてしまいます。
 人間になれ、という法師に対してアシュラは獣の道(食うか食われるかの道)を歩むことを拒みません。
 さて、ここからが私にとって大変興味深い展開になります。先ほど言ったように法師とのやりとりによって彼は人間の心を取り戻しますが、アシュラのその後の行動が実に人間らしいのです。疑いようのない人間らしさといえます。
 いかにして人間の心を得るのか? 法師は自らの腕を自らの手により切断するのです。
 「どうじゃ、アシュラ、これを食え、これを食ってみろ。ほれ、なぜ食わん。食えないのか。おまえは人間なんじゃよ、だから食えないのじゃ。おまえの中にある獣と戦うんじゃ、それが人間の道じゃ。ひとをにくむな。おのれ自身をにくめ。おのれの獣をにくめ」
 序盤で農夫の片腕を食べる場面が、この山場と対照的です。作者がどこまで計算してこれを書いたのかわかりませんが、「うまい構成だな」と感じました。
 人間の心を取り戻したアシュラはその後人肉を食べませんが、彼は人を殺します。食べるためではありません、ただ殺すだけです。作者が人間の心をどのように定義付けていたのかわかりません。何故アシュラにこのような行動をとらせたのか? 人が人を殺す行為が人間らしい行為?
 近隣の人々から殺人鬼として追われる身になったアシュラは、傷つきながら逃げ延びます。そして再び散所のある村に戻り若狭の前に現れます。若狭は飢えていました。アシュラは人間の肉を彼女に渡しますが、それを彼女は食べるのです。人肉とわかっていながら。彼はすぐにそれがいのししの肉であることを明かすものの衝撃は隠せません、母と慕った彼女も、実母と同じだった! 法師の言葉がよみがえります、「人間のかなしいところじゃ、あわれと思え、あわれと思え」
 散所を去ったアシュラは都を目指します。アシュラとともに散所で酷使されていた少年達も彼に従います、太郎丸も含めて。
 都は村よりも餓死者が溢れているという、それでもアシュラは都に向かって走ります。そして…
 劇中のアシュラはよく泣き、笑い、怒り、実に表情豊かです。私は陰惨な内容にもかかわらず楽しんで読めましたが、これもアシュラの笑顔がとても印象深く、結構たくましく生きている姿に共感したためでしょうか。
  「もの食う人びと」の「ミンダナオ島の食の悲劇」には、日本兵に家族を食べられた人々が登場します。
…村民たちは泣き叫んではいない。声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。…私の目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史さえ知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との、気の遠くなるような距離。私はただ沈黙するしかなかった。…

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