戦後の狂気は黒髪ロングに宿る
「奇子」
手塚治虫全集他
手塚治虫
戦後の社会的事件を想起させる出来事を散りばめながら、東北のとある大地主・天外(てんげ)家一族の没落を描いた物語が、手塚治虫「奇子」である。1972年から翌年の6月まで、約一年半に渡って小学館「ビックコミック」で連載され、現在は手塚治虫全集か文庫版が手に入れやすいだろう。ちなみに私は大都社版の上下巻で持っている(ちょっと自慢。でも初版じゃないのが残念だ)。
タイトルどおり主人公は奇子(あやこ)である。彼女は天外家の末娘として生まれたことになっており、初登場時は4歳である。物語を駆動させる力はなく、それどころかその後の波乱を予感させる描写も彼女自身にはまだない。ただし、彼女の出生には誰にも知られてはならない秘密があった。それを知らされることになる天外家の次男・仁郎(じろう)が、物語の全体を牽引していくことになる、真の主人公は彼だといっても過言ではない。
話の軸となるのが、戦後最大のミステリーとも言われる昭和24年に起きた「下山事件」を模した、劇中で言うところの「霜川事件」をめぐる展開だ。仁郎がこの事件に間接的に関わったことで、天外家のゆったりとした凋落は加速していくことになる(手塚は実在した事件をモチーフにした作品が数多く、当時の流行物を作品の中に入れることも厭わない作家だった)。事件の概要を簡単に説明すると、昭和24年7月5日、国鉄初代総裁・下山定則が出勤途中に行方をくらまし、翌日未明に轢死体となって発見された事件である。不可解な失踪や事件直後の目撃証言、列車による轢死という衝撃など、他殺説・自殺説が飛び交い、警察は捜査結果を公表することなく、結局迷宮入りとなった。「奇子」連載時で著名な関連書籍としては松本清張「日本の黒い霧」が挙げられよう、おそらく「奇子」の「霜川事件」もこの書籍を踏まえての描写だと思われる。昭和48年には、当時事件を取材した新聞記者・矢田喜美雄「謀殺 下山事件」が上梓され(「奇子」の連載が1年遅ければまた物語の内容が変わっていたかも……)、その後も様々な作家やジャーナリスト等が事件の真相を追い求めている。劇中で登場する「キャノン機関」「CIC」という実在した組織は、下山事件に関わったと疑われていた。仁郎もまた、CICの一人として諜報活動に加わっていたのである。
仁郎が命令されるがままに協力した事件は、霜川事件が起きる三週間前の6月16日に発生した「淀山事件」である。手塚の創作によるこの事件は、当時の左翼グループのリーダー格だった男を自殺に見せかけて轢死させるという、霜川事件の演習とも言えるものだった。ちなみに、その殺された男の恋人だったのが天外家の長女・志子(なおこ)というのが物語をしている感がある。彼女は、当時のレッドパージのために、天外家から勘当同然に追い出されてしまった。
地元警察のベテラン刑事・田沼は、霜川事件が起きると両事件の類似性に着目し、独自に捜査を進めることになる。霜川事件の捜査で指揮を奮う下田は、田沼とは旧知であり、両者が協力し合って捜査を進めていくと、捜査線上に天外仁郎が浮上することになった。仁郎は、淀山事件当夜、血の着いたシャツを夜中にこっそりと洗っているところを、白痴の女・涼と、まだ4歳だった奇子に目撃されていたのである。
目撃者は命を狙われる。仁郎は、警察が自分に近づいていることを察すると、涼と奇子を殺す決意をする。CIC仲間の女とともに、涼を殺し、彼は、実の妹を手にかけようとするのだ。また彼の思惑は、実は天外家と通じていたのである。地元の名家である天外家から縄付き・前科者を出すわけには行かない、当主をはじめとした一族により、奇子は死んだ者として、土蔵の地下に閉じ込められてしまうのである……
さて、物語はその後も仁郎を中心に展開していく。土蔵の中で成長していく奇子は、満足に学ぶことも知らず、天窓から差し込む日差しと、天外家の次男・伺郎や長男・市郎の嫁が運ぶ三度の食事を頼りに、初潮を向かえ、やがて女の身体に変化(へんげ)していくのである。
手塚の柔らかい筆遣いは、美人な奇子の肢体を妖艶に描き出し、幼い言動とは裏腹に豊潤な胸を強調する。そして惜しげもなく彼女の全裸を劇中で曝した。劇中では、奇子の母親である兄嫁・すえと実の父で天外家の当主・作右衛門の性交描写がある。奇子の出生の秘密に触れる重要な場面なのだが、すえの胸は彼女自身の手で隠され、ほとんど全裸を描かれない。つまり、奇子だけが特別な存在として、しかも女性性を強調して描かれるのである。奇子の姉である志子は左翼に傾斜した影響か、いつまでも女の弱い時代じゃないのよ云々のセリフがあるけれども、奇子は社会を知らない無垢な女として、ただ身体だけが生きる術として描かれていくのは、まるで志子の思想と相反するような気がしないでもないが、もしそんな考えを持ったとしても全てはラストでひっくり返されるだろう。
奇子の成長に合わせて、髪の毛も伸びていく。数十年という時間の中で、髪は伸びては切られ伸びては切られていくだろうから、実際には奇子の髪の毛も定期的にカットされていたはずである。だが、その様な変化は劇中で扱われない。物語が進むにつれて彼女の髪は伸び、肩をくだり、腰に届かんばかりに伸びていく。これはレトリックだろう。まるで天外家のエネルギーを喰らい尽くすように、彼女の真っ黒な髪は、肢体のような艶かしさを醸しつつ、しっとりと伸びていくのである。
奇子の潜む土蔵は、地元の道路建設の影響によって取り壊されることになった(浅間山荘事件や三里塚闘争を髣髴とさせる描写もある)。昭和46年。奇子は、実に22年間も暗く狭い部屋の中に閉じ込められていたのだ。土蔵から出る機会をついに得た奇子だが、彼女は戸籍上では死んだことになっており、やはり世間の目に晒すわけには行かなかったけれども、奇子は幼いままの世界観にもかかわらず天外家を飛び出してしまうのである。長く伸びた黒い髪をなびかせながら、奇子は、自身を翻弄した天外家の一族に、決定的となる破滅の糸を手繰り寄せ、その妖艶な黒髪によって多くの人々を絡みとり、絶望へと巻き込んでいくのである。
思い出していただきたいのは、前半に登場した涼である。彼女もまた天外家当主がよその家の女性との間に作った庶子であり長男の嫁との間に出来た奇子ほどではないが、当主が天外家の狂気の家系を象徴しているように、涼もまた奇子になりえたかもしれない存在として描かれていた。白痴という設定ではあるが、彼女は肩まで伸びた白い髪の毛とだらしなく纏った着物を羽織り、幼い奇子とよく遊んでいた。仁郎は、淀山事件の当夜、何をしていたのかと実父である当主に詰問された時に、この涼に迫られて寝ていた、と虚言を述べるのである。仁郎を怖がっているだけの涼には抗弁する力もなく、仁郎は言い逃れてしまうのだ。
天外家を飛び出した奇子が向かったのは、こっそりと奇子に大金を送金していた仁郎の住む屋敷だった。彼は変名で暴力団系の組織の会長として成り上がっており、奇子の突然の訪問に驚きつつも、彼女を自宅で囲うのである。そして、奇子は、涼に対する虚言とは別に、本当に、仁郎に迫ってくるのである(念のため言うが、二人は腹違いとはいえ兄妹である)。涼になくて奇子にあるものが、この性への並々ならぬこだわりなのだ。もっとも、そんなきっかけを与えてしまったのが伺郎(また念のため言うが、二人は腹違いとはいえ兄妹である。この作品、こんなのばっか)。二人が実際にことに及んだかどうかは作品を読んで確認していただくとして、物語は、亡霊のように甦った霜川事件を巡って、怒涛の山場に突入していくのだった。
終盤の奇子で着目するのは目である。当時の手塚作品は、劇画の影響に直撃された頃であり、劇中には積極的に写実的な背景が緻密に描きこまれている。東京の町並みから田舎の景色まで、写真のようにコマの間に挟まれて物語のリアリティを煽った。そしてキャラクターの表情もまた、丸みを帯びたマンガまんがした絵から、描線を増やした人間の顔っぽい雰囲気を備えていく。だが、奇子の妖艶さだけは違った。彼女のキャラクターだけは、劇画っぽさを排し、描線の少ない(土蔵の中で暮らしていたための肌の白さを強調したい面もあったのだろう)、白が際立つ表情で、他のリアルな描き込みのある表情を持つキャラクターとは別であった。ただ目だけが、他のキャラクター同様に、いやそれ以上に、やや大きく見開かれた目が輝いていたのである。
最終盤に至ると、物語は生死にかかわる事態へと進展していく。非常事態に大慌てなキャラクターたちは、多くの汗を表情に浮かび上がらせ、危機感を訴える。それでも奇子の表情は、非現実的な無に帰していく。長髪に吸い込まれた狂気が、ラストになって発散していくような無表情……そして一切汗をかくことのない顔立ちが、異様な迫力を伴って彼女のキャラクター性を読者に思い起こさせるのである。奇子は、土蔵の中で22年間も閉じ込められた狭い世界で生きてきたという異常な生い立ちを!!
それは復讐なのか、それとも子ども心の他愛のない感情なのか。閉鎖的な村社会を土蔵の中で育った奇子に凝縮し、ねっとりと成長していく狂気を黒髪に宿したまま、奇子の物語は幕を閉じるのである。
(2010.9.6)
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